新◻️406『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、立石岐、浅部和七郎)

2022-02-05 10:08:37 | Weblog
406『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、立石岐、浅部和七郎)

 立石岐(たていしちまた、1847~1929)は、備中船穂の小野家の生まれ。19歳で立石家の養子となる。まもなく明治維新を迎え、殖産興業の必要を感じ、二宮に1917年(大正6年)に製糸工場をつくる。
 1878年(明治11年)には、21名にて共之社をつくる。そのために、言論による住民運動を進めようと。それを使って、「産業を起こせ、民権を高めよ」、すなわち、ある種の「産業結社」ということであったろう。ちなみに、その産業とは、養蚕製糸業を考えていた。
 続いての1879年(明治12年)には、岡山県内の同志とともに両備作三国親睦会を結成する。あまねく人々に国会開設運動をすすめる。1881年(明治14年)には、国会開設の勅諭が出されると全国で政党結成が相次ぐ。
 その翌年には、美作自由党が発足する。その性格としては、大地主、新興ブルジョアを中心とした勢力の力を強め、封建的な政治経済体制を破ろうというもの。
 そして迎えた1890年(明治23年)、我が国初の衆議院議員選挙が実施される。岡山6区(美作西部)からは彼が選出される。その翌年の第二回帝国議会で政府が提出した「鉄道公債法案」について、こう質問する。
 「この第一条の末項について質問いたしたい。末項に鉄道に要する軍用停車場というものが設計になっておりますが、この説明を見ますと、その工事の費用というものは40万5千円を要すとあります。このことは私どもがちょうど考えてみまするはなはだ不必要なものでーー不必要ではありませぬ、不経済のもので、また国家に不親切なる設計ではないかと考えます。
軍事上にはこういう停車場も必要であろうと思いますけれども、およそ戦争は幾年を期してあることか分からぬことである。しかるにこれにこれだけの金をかけて、東京なり名古屋なり大阪なりその他兵営のある場所というところは、いずれも都会の地にして、この土地はずいぶん貴重な土地である。有要な土地であるから、金を費やしておかねばならぬということであるが、私どもの考えにおいては、もしも一朝事ある時は、かようなものは即ち工兵をして直ちに造ることができるから、平生にこれを備えおくは、はなはだ不経済であると考える。
 しかしながらこれは実際戦争というものは、幾年を期してあるか分からぬことで、あるいは3年、5年の間に大演習などがある場合にも、必要であるとするも、これもまたその時に造ればよろしい。その間は元のごとくにしておけばよろしい。それぞれ軍事に使用するものを造っておかないでも、差し支えないと存じます。私どもはこれを平生備えておくことは、はなはだ不経済であると信ずるのでありますが、政府においては別に我々の思慮の及ばざる必要の事があるのでありますか。この主意を承りたい。」
 これにあるように、鉄道における軍事施設は不要ではないかもしれないが不急だという。なかなかの気骨に違いない。この法案は有名な蛮勇演説のあおりによる衆議院解散のため廃案となったものの、1892年(明治25年)には、鉄道網整備の基本法である鉄道敷設法が制定される。
 地元との関係では、中国鉄道株式会社設立に協力していく。井出毛三(落合町)、中島衛(なかしままもる、鏡野町)、安黒基(あぐろもとい、津山市)内田にぎ穂(加茂町)、菅英治(すがえいじ、中央町)などの仲間とともに、美作における自由民権から身をおこし、その後の岡山の政治にも大きく関与していった大立て者としてある。

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 浅部和七郎(あさべわしちろう、1843~1883)は、実業家だ。窪屋郡子位庄(現在の倉敷市)の生まれ。叔父である忠義と木綿栽培、材木業、漁業を営んでいた。しかし、いずれもうまくいかない。
 そこで迎えた1876年(明治9年)には、開業資金を得て、廃坑となっていた中庄村の猿曳山銅山の採掘に加わるも、出費がかさむ事から採掘事業は解散してしまう、たが、和七郎一人踏みとどまる。事業の起死回生を狙って新抗を試みていたところ鉱脈に接することに成功する。
 また、早島村(現在の都窪郡早島町)の金田山廃坑の再掘を始める。これに平行してか、多くの銅鉱を採掘し、それらの利益で数十町の田畑を買う。更に船舶を買い、海運業を始める。

 やがての壮年期に病を抱えるようになり、本人の人生航路には忸怩(じくじ)たる思いもあったのではなかろうか。その評伝としては、「剛毅で温厚な性格。公共のために尽くし、私財を投じ貧しい人々を救った」と伝わる。

(続く)

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新◻️386『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、箕作佳吉)

2022-02-05 09:10:06 | Weblog
386『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、箕作佳吉)

 箕作佳吉(みつくりかきち、1857~1909)は、動物学の中でも海洋生物学者だ。父、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の三男として、江戸津山藩邸で生まれる。1870年(明治3年)に、父の友人、福田諭吉が開いた慶応義塾に入り、英語を学ぶ。
 1872年(明治5年)には、大学南校に転校する。1873年(明治6年)の15歳の時、英語教授エドワードハリスに伴われアメリカに渡る。父親の「つて」あってのことなのだろうか、かの地では、ハートフォード中学からレンサラー工科大学に入る。そこでは、土木工学を学ぶ。のちエール大学ジョンホプキンズ大学に転じ、今度は動物学を学ぶ。その後、ケンブリッチ大学でも動物学を学んで、1882年(明治15年)に帰国するのだが、早々に津山の墓を詣でようとしたらしい。その時の話として、蒸気船で岡山の港へ上陸(注)。

(注)当時、岡山の外港として繁栄した三蟠港(さんばんみなと、現在の岡山県岡山市中区江並)からは、三蟠鉄道(さんばんてつどう)による岡山市内への連絡があった。こちらは、国清寺(岡山市中区門田屋敷)および桜橋(同市中区桜橋)とを結んでいた軽便鉄道にして、1915年8月11日に三蟠-桜橋間の敷設に始まる。1923年(大正12年)2月には湊-国清寺間が開通し、全線が開通した。つごう7.25キロメートルの行程のうちに「三蟠」「浜中」「宮道」「下平井」「上平井」「湊」「桜橋」「網浜」「国清寺」の計9つの駅が設けられてあった。その後の経緯としては、従来型の船を主体とするものから県外との鉄道連絡をもってする輸送手段への変化に押されることにより業績が悪化、1931年(昭和6年)6月28日をもって廃線に追い込まれたとしている。

すると、宿屋では白魚の吸い物を出したところ、これに眼をとめたのが縁で、白魚の研究を始めたのだと伝わる。それからは、東京大学動物学教授を務める。1886年(明治19年)には、東京大学三崎臨海実験所を創設する。
 一見取りつきにくい話ながらも、前述の白魚の研究を進めた結果、頭蓋骨の点で、白魚と素魚との区別がかない、また中間魚でないことも立証されたという。「白魚科」が「ハゼ科」から独立することになった。他にも、深海に棲むミツクリザメやミツクリエビは、彼に名前を献上されたと言われ、学者冥利に尽きる話ではないだろうか。
 1901年(明治34年)には、東京帝国大学理科大学学長となる。牡蠣養殖や御木本の真珠養殖に助言を求められ、力を貸す。また、女子教育の大事さを説いて、東京高等女学校の校長も務める。1904年(明治37年)の万国学術会議に、北里柴三郎と参加する。

 ロシアのドストエフスキーやトルストイを連想させるかのようなひげを蓄えている顔は、いかにも優しげに見受けられる。彼はまた、海洋生物学・昆虫学でいわれるミツクリザメ(学名:Mitsukurina Owstoni Jordan 1898)など、約40種の学名にその名前が付いていて、一説にはそれらの大方は臨海実験所の所員なりが佳吉に献上したともののようである。さほどに、学問一途の人には権威に甘んじるのではなく、人徳が備わっての栄誉なのではないだろうか。

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