🔶707『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(~1988)

2022-02-13 22:57:20 | Weblog
707『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(~1988)

 1988年6月28日から7月1日にかけて、第19回ソ連共産党協議会が開催された。討論の実況が初めてテレビで全国に公開された。
 この会議でソ連共産党の書記長であったゴルバチョフは、政治改革の必要を訴える。具体的には、ソ連の最高の権力機関としての人民代議員大会の創設を提案する。これまでの最高会議に変えて自由選挙地方選局、民族地方選挙区、社会団体からそれぞれ750名ずつ選挙された2250名からなる人民代議員大会と、そこから選ばれる4004~450名の最高会議議員でもって新たな連邦議会を構成するというもの。しかも、議員の3分の2の選出に当たっては、それまでのような共産党の推薦した唯一の候補者の信任投票によるのみでなく、複数候補の立候補によるロシア革命以来の自由選挙で選ばれるという仕組みに取って代える。
 また、人民代議員大会の中から選出される最高会議(最高会議議長職の創設を含む)については、共産党政治局の決定を破棄する権限をもつことが決定される。
 1988年10月、ソ連邦最高会議幹部会議長(元首)を兼任したゴルバチョフは、同年11月に憲法改正案と新選挙法案を提出する。国権の最高機関としての連邦人民代議員大会と強力な権限をもつ連邦最高会議議長の創設、それに常設の立法機関としての連邦最高会議の創設などが盛り込まれた。同年12月、憲法改正案と新選挙法案はソ連邦最高会議で採択される。
 1988年11月、ソ連の一共和国であるエストニア共和国最高会議は、主権宣言を採択するとともに、共和国憲法を改定し、ソ連邦の法令は享保国最高会議の批准によってはじめて効力を持つことに変えた。これを受けたソ連邦最高会議幹部会は、エストニア共和国のこの決定はソ連邦憲法に違反し無効であると宣言する。翌年になると、エストニアの近くの共和国であるラトヴィア共和国とリトアニア共和国もエストニア共和国と同様な決定を行うに至る。

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 当時において経済改革の主要課題とされていたのは、やはり、卸売(資本財)市場の創設と消費財の安定供給、インフレーシヨン(そのために、「国民は毎日貧しくなっていた」とも解釈できるほど)を克服することであったろう。
 そこで前者について、まずみていこう。ペレストロイカの経済面の実務を務めていた経済学者アガンベギャンは、こんな話をしている。

 「私たちは、経済メカニズムの立て直しが、単に企業管理部やその研究開発部門にとどまらず、従業員全体にまで及ぶようにするため、独立採算制に基づくあらゆる集団請負制の適用範囲を広げることを決めた。とくに、その最高形態である賃貸借(アレンダ)制の適用範囲を拡大したいと考えている。この賃貸借制は、生産物の品質改善とあらゆる資源利用の効率向上を狙った複雑な奨励措置制度と結びついている。第19回党協議会では、卸売商業の導入を促進するとともに、各企業による営業収益の管理権に今なお加えられている制限をできるだけ早急に撤廃することが決定された。また、ソ連経済の財政健全化を目指す特別計画の策定をもはや延期できないことが改めて指摘された。
 この面での成否は、私たちが社会主義市場をどの程度利用できるかにかかるところが大きい。私たちは、消費市場とともに、資本財の市場を近い将来に我が国に創設することを目指している。(中略)
 現在のような時期にはインフレ傾向を阻止することが重要であり、そのためには競争が盛んになるような市場の状況を作り出し、独占行為をやめさせ、インフレに抵抗する財政・信用機構を作り出し、通貨の流れとの適正な相関関係を確保するようにしなければならない。」(アベル・アガンベギャン、大朏人一(おおつきじんいち)訳「ソ連経済開放への道」読売新聞社、1991)

 これにもあるように、当該の党議会においては、政治ばかりでなく経済面での困難(それらは、当時の諸般の差し迫った状況から見て、もはやソ連の社会主義経済が暗礁に乗り上げるレベルに達していたに違いないのだが)を打開しようとの意気込みも見られたようなのたが、その後の経緯からすれば、「遅きに失した」の感を免れなかったようだ。

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 そこで古今東西、それに現在においてもよく言われていることなのだが、やはり「衣食住」が大事であるのは、ほぼ共通しているのではないか。ソ連のペレストロイカにおいても某かそのことに気がついていたのは、当時の用人、アガンベギャン(経済学者)の次の指摘からも、窺えよう。
 「商品とサービスの供給となると、これまでに収められた成果はきわめてわずかなものだ。物的財とサービスの量は1986年に5.7%、1987年に3.3%、1988年には7%だけ増加した。第12次5か年計画の最初の2年間に、小売販売高(アルコールを除く)は10.5%、1988年には7.1%だけ増加した。同期間に有料サービスは19.2%および17%も増加した。国家統計委員会によると1人当たり実質所得は、第12次5か年計画の最初の2年間に4.6%、1988年にはさらに3.5%それぞれ増加している。」(アガンベギャン、前掲書)

 とはいえ、こうした数字を額面どおりに受け取ってよいのだろうか、同時に、食糧供給の隘路(あいろ)について、次のように言及している。

 「以上の統計数字(不変価格で表示)に評価を加えるにあたっては、ソ連には隠れたインフレがあり、それが消費市場に影響を与えていることを念頭に置くべきである。現行の価格統計は一定の品目の定価表を基礎にしていて、品目の変更による価格の上昇を考慮に入れていない。実際には、安価な商品が姿を消し、代わりにもっと高価な商品が現れるという動きが絶えず進行しているのである。この隠れたインフレは年率3~4%と見積もられている。これに応じて上記の数字を修正すると、物的財とサービスの消費の実質的成長率は、1986年で2%前後、87年にはゼロ成長、88年にはわずかに上昇した計算になるだろう。(中略)
 一般に、ソ連は食糧消費に関する限り、世界の先進15か国の一つであるが、住宅条件、幼児死亡率、サービス産業の発展、耐久消費財の供給その他多くの指標に、ついては、50番目あたりに位置している。しかも、食糧供給の点で高い位置にあるとはいえ、その供給体制がきわめて悪いために、需要が満たされない部分が多く、地域差も大きく、食料品の種類は非常に貧弱で、品目によっては非常に品質がお粗末だ。それから見ても、基礎食糧の輸入を最小限に減らし、食糧供給を改善するためには、農業生産と食品工業を発展させるだけては不十分だと結論せざるを得ない。それに劣らぬ努力を食糧供給体制の改善に注がなければならない。つまり、根拠のある食糧価格を復活し、食糧の品質を向上させ、豊富な種類の食料品を生産し、販売するように、しなければならないのである。また、公共外食制度や食糧の輸送、貯蔵、販売の根本的改善を考えなければならない。(中略)

 次は、日用品の問題だ。第12次5か年計画期におけるこの分野の進展は全く不十分だった。1986~87年に消費物資の生産量は7.8%増加した。そのうち、軽工業は3%、縫製工業は1%の生産増加しか見せなかった。1988年には、消費物資の生産増加率は5.1%、そのうち軽工業は4.3%だった。しかし、軽工業で主たる問題になっているのは生産量ではなく、品質と種類である。国民一人当たりの生産量では、わが国は織物と靴で久しく世界第1位を占めている。ところが、需要は満たされていない。なぜなら、製品の品質と種類が国民の要求に合わないからである。それはもっと伝統的な日用消費製品、たとえばテレビ、冷蔵庫、洗濯機、電気製品、ラジオなどにも当てはまることで、この場合も生産量は十分なのに、品質と種類が国民の要求に合わないのである。」(アガンベギャン、前掲書)

(続く)

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(続く)

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