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探検家の足跡を追いかけたり、冒険小説を読むことについて
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探検家を職業とする日本人に、高橋大輔という人がいる。
彼の探検のテーマは「物語を旅する」。
神話や伝説が導く世界がかって現実にあったことを確かめるむために、
世界中を旅している。
物語案内人である僕が、高橋さんに触れずにおくはずがない。
高橋さんは何と言っても、
ロビンソン・クルーソーのモデルとなった実在の人物、スコットランド人の
アレキサンダー・セルカークを追いかけて探検をした人。
その全容は、『ロビンソン・クルーソーを探して』(新潮文庫)という本に著されている。
高橋大輔さんのブログから、プロローグの部分を引用してみる。
ちょっと長くなるけど、引き込まれる。
「探検家を志した一つの動機、わたしにとってはシュリーマンが
大きな影響を与えた。
誰もが作り話だと思い込んでいたギリシア神話、
ホメロスの物語に出てくるトロヤという町。
それを実在したと信じた彼は信念と努力でついにそれを掘り当てた。
感動的なその成功譚の中で、とくにわたしは
彼が荒唐無稽な物語を信じ続けた点に大きなインパクトを感じた。
確かに多くの発見、それらは荒唐無稽のものと誰もが相手にしないような
物語と真摯に向きあうことからもたらされている。
ヘイエルダール博士のコンティキ号による航海も、
南アメリカのインディオの神話がそのはじまりにあった。
ハイラム・ビンガムのインカの空中都市、マチュピチュの発見も
地元の人の取るに足らないような話からもたらされている。
このように神話や伝説はこれまで未知への探検の大きな目標になってきた。
フィクションとノン・フィクション。
作り話だと思っていた『ロビンソン・クルーソー』の背後に潜んでいた実話。
そこに大きな発見されるべきものの気配を見い出したわたしもまた、
神話や伝説に探検の広大な沃野を見る思いがした。
神話や伝説の中に潜むリアリティ。
フィクションとノン・フィクション、
その二つが重なるグレイゾーンへの旅は物的証拠を求めつつも、
人間のこころを探求するというものに違いない。
それはまた人間の夢への探求であり、地球を舞台とした謎解きでもある。
物語を旅する。
ロビンソン・クルーソーをはじめ、
浦島太郎などの日本の昔話、アイヌの伝承コロポックル、沈んだ高麗島伝説、
シバの女王、ブラジルの失われた都市エル・ドラードなどなど。
探検の最大の醍醐味は結果以上にそのプロセスにある」
高橋大輔さんは1966年生まれの48歳。
ロンドンに本部がある王立地理学協会と、
ニューヨークに本部がある探検家クラブ会員。
明治大学在学中から、バックパックを担いで
世界の六大陸を放浪していたそうだ。
「大学に入って、寝袋や食料を詰めこんだバックパックを担いで
世界中の六つの大陸を放浪して歩くようになると、
『自然と人間』が旅の最大のテーマになった。
つまり、大自然の中で人間はどこまでうまくやっていけるのだろうか?
ということ。
アマゾン川やサハラ砂漠、ヒマラヤやシベリア、東南アジアの密林地帯、
オーストラリアの内奥部を占める乾いたアウト・バック、果ては南極まで。
それら圧倒的で無垢な大自然の中に入りこむと、
私はいつも『こんな所ではとてもやっていけない』という
あきらめとも弱音ともつかない感覚に支配されてしまう。
極端に暑かったり、寒かったり、
一滴の水が宝石のように感じられるような場所から、
反対に溺死の恐怖と隣り合わせの場所まで。
そこでの体験は常に『自分はいかほどの存在だろう?』という
何とも答えようのない自問へと結びついていったのだ」
(『ロビンソン・クルーソーを探して』より)
高橋さんは、「ある日突然、何の知識もないまま、自然の中に
放り出されたとするなら、一体どこまでうまくやっていけるだのろうか?」
という疑問を抱き続ける。
そして、答えを求めて荒野を旅する時、
常にバイブルであり続けたのが『ロビンソン・クルーソー漂流記』だった。
高橋さんの冒険譚は『ロビンソン・クルーソーを探して』に
詳しく書かれている。
延々と毎日が続くような日常生活の中で
「人生なんてこんなもんだ」と嘯きがちな人がいるとしたら、
違う時間のすごし方もあるし、
高橋さんのにように実際そうしている人たちもいることを知ってもらいたい。
そして、その冒険は、彼らが語る記録、作家が書き起こした物語を読めば、
自分自身の二次的な体験として追随できるのだ。
物語と現実は、そんなにかけ離れたものではない。
ノンフィクションも含めて、物語世界は現実の背後にぴたりと控えている。
物語のリアルは、現実の中に入り込んで人の心に寄り添う。
物語世界の中で数時間を過ごすことは、心を解き放つ大事な時間である。
現実には、身動きが取れなくて冒険にとび出すことはできなくても、
本を読むことで数時間、冒険に浸ることができる。
その貴重な時間を、ぜひとも確保したいものだ。
冒険は手を伸ばしたすぐそこ、本の中にあるのだから。
【見つけたこと】「ものがたる」ことが「物語」なら、探検などのノンフィクションもまた「物語」である。
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レディバードが言ったこと
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「しっかりしなさいよ」とレディバードは僕のそばに立ってため息をついた。
立つといっても、机の上のパソコンの横ということだけど。
身長20センチぐらいしかないレディバードは、机の上に立っても、
僕の目線よりも下にいる。
「しっかりって、どういうこと?」
僕はレディバードに聞き返した。
「そりゃ冒険物も探検のノンフィクションも大事だわよ。
だけどあなたの場合、ここんとこずっと仕事ばっかりしていて、遊ぶ時間もないじゃないの」
「そうだよ。だから冒険物語を読んで心を解放するのさ。2時間の心の冒険の旅に出るんだ」
「とか、言っちゃって。
だから、しっかりしなさいって言ってるの。
物語のリアルと言っても、現実のリアルのダイナミックさを感じることなくしては、
空論でしかないわ。現実が欠落したら、物語のカオスに飲み込まれるわよ」
「って、きみがそれを言う?」
「だから物語っていうのは、光もあれば闇もあるの。
何にでも二面性があるわ。
自分の精神が元気で生気に満ちているからこそ、物語に対峙できる。
自分の心がへなへなで息切れしそうになっているのに、冒険物もないでしょ。
人って、心が病んでるときに本は読めないって、あんたのお姉さんが言ってらしたわ」
ここでレディバードは手を振り上げて、演説でもしているみたいにこう言い放った。
「あんたに必要なのは、一日でもいいから自然の中で呼吸することよ。」
「僕が心を病んでるみたいな言い方だね」
「だれだって、自然から遠ざかっていれば心を病むわよ。人間だって、自然の生きものなのよ。
哺乳類なんだから」
折も折、ハル文庫を運営しているアヤさんからメールがきた。
ハル文庫の庭で、ロビンソン・クルーソー・キャンプを張るのだそうである。
「子どもたちと飯盒炊爨をし、いっしょにテントに寝泊りしませんか?
ちゃんと火を起こせる男性の手がほしいのです」と書いてあった。
「ほうほう、あんた、火を起こせるの?」
「子どもの頃、ちょっとだけボーイスカウトに入ってたからね」
「へー。じゃあ決まりね。
ほんとは山の中とかのほうがいいんだけど、とにかく今度の土曜って書いてあるから、
行って役に立ってらっしゃいよ」
ハル文庫の庭がわりと広いからと言って
砂漠の満天の星空の下で寝袋にもぐりこむのとは、スケールが全然違う。
僕は男の子たちとワイワイ言いながらテントを張り、食事をつくり、柄にもなく
物語を語って聞かせて、寝袋で寝た。
10月の夜の空気は心地よく、地面に寝る感触は、少年の頃の冒険への夢をかきたてた。
自分が体験している、ほんとに些細な野外の時間と、冒険者たちが大自然の中で過ごす
厳しい冒険の時間。
その重みが、自分の中ではなんら変わらないことに気がついた。
実際に肌で感じること。
そのダイナミックさをおざなりにして、冒険や探検の醍醐味を物語だけに求めるのは、
バランスが悪すぎるのかも。
僕は再び、物語と現実の境界線について、考えを巡らせていた。
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