サラ☆の物語な毎日とハル文庫

ロビンソン・クルーソーの実在のモデル、アレクサンダー・セルカークの覚え

『ロビンソン・クルーソー漂流記』は、空前絶後の冒険小説である。
ダニエル・デフォーは、1719年にこの小説を発表した。そして、人びとの絶賛を博したのだが、 実はその8年前に、ほんとうに無人島から無事生還したひとりの男がいた。 
ロビンソン・クルーソーのモデルとなったアレクサンダー・セルカークである。

いまから13年前、『ロビンソン・クルーソーを探して』(IN SEARCH OF ROBINSON CRUSOE)という本が新潮社から刊行された。当時広告代理店の博報堂に勤務していた探検家の高橋大輔氏が、アレクサンダー・セルカークの足跡を10年をかけて追いつづけ、実際にセルカークが暮らした無人島の家を探し出すまでを記録した素晴らしい本だが、この本から、アレクサンダー・セルカークの人物像を抜き出してみようと思う。

アレクサンダー・セルカークは、1676年に、スコットランドのファイフ郡ラルゴという港町に生まれた。
父親のジョン・セルカークはなめし革職人で、靴の修繕屋としてある程度の成功を収めていた。
ピューリタンで長老派の信者であった。真面目で厳格そうな人となりが想像される。
一方セルカークは、かっとすると暴力をふるってしまう短気な性格だったようで、兄達に怪我をさせるというトラブルを引き起こし、故郷を捨て、船乗りになるのだ。

そして、1703年、アイルランドのキンセイルから出帆した二艘の船うちの1つ、ガレー船、シンク・ポーツ号に航海長として乗り組み、南アメリカ大陸の最南端、ホーン岬を越えて太平洋へと乗り出していった。
この二艘の船は、キャプテン・ウィリアム・ダンピアという大物海賊が総指揮官の私略船。要はイギリス政府公認の海賊船である。
セルカークは海賊稼業に身を染めたわけだ。

さて、セルカークの運命は、乗っていたシンク・ポーツ号の船長が急死したことから、傾いていく。
新しい船長となった副官のトーマス・ストラドリングは横暴で傲慢な男だった。
1704年には総司令官のダンピアと諍いを起こし、二艘の船はパナマ沖で別れ別れになる。
その後、シンク・ポーツ号は中南米海域で単独で海賊行為を働いたあとに、ファン・フェルナンデス諸島のファン・フェルナンデス島という無人島に立ち寄り、水や食料、薪などの補給をすることになる。
 
さて、セルカークはもともとが短気な性格である。ストラドリング船長とは、気が合うはずがない。
航海長であるセルカークが、この船長とぶつかるのは当然の成り行きである。
島に上陸したときに、セルカークはとうとう船長と衝突し、ついに啖呵をきってしまう。
「こんな船に乗ってられるか。あんたと航海するのはもうお断りだ!」

ああ、そんなことを言いさえしなければ…。縦の指揮命令系統を遵守してさえいれは…。
ストラドリング船長は、これ幸いとばかりに目の上のたんこぶだったに違いないセルカークを一人無人島に残したまま、船を出し、船は大海へと掻き消えていった。

これが、セルカークが無人島生活を送る羽目に陥ったいきさつだ。セルカーク、28歳。
手元に残されたのは、身の回りの品を入れる船員用の大きな箱一つ。
箱の中に入っていたものは、衣類、寝具、マスケット銃一丁、火薬と弾丸。タバコ、手斧1本、ナイフ1本、やかん1つ、聖書1冊、大工道具やその他の実用品数点、航海用の計器類、何冊かの本である。
(船いっぱいの品々を手に入れたロビンソン・クルーソーとは大違いである。)

さいわい、この島には食べるものがたくさんあった。
ヤギはたくさんいたし、逆に猛獣や、蛇、ソリといった毒をもつ動物はいなかった。
キャベツの木の肉厚の葉、シシリーダイコン、カブ、クレソン、甘い実をつけるションタ・ヤシ、パセリ、スベリヒユといった食べられる植物。
ロブスター、シルバーフィッシュ、ロックフィッシュ、ポラック、サワラ、ニシン、貝、海ガメなどの海産物。
ウミツバメの巣からは新鮮な卵。

気候は一年中温和で、平均気温は、もってとも高くなるときでも摂氏22度。冬も摂氏10度前後。
雨季は4月から10月。乾季は11月から3月。
島はブーメランの形をしており、面積は47.1平方キロメートル。伊豆大島の半分よりも少し小さな島である。
ファン・フェルナンデス島(現在は、ロビンソン・クルーソー島に改称)は南緯33度37分、西経78度46分の海域にある三つの小さな群島の1つで、数百万年前に、海底火山の爆発で隆起してできた島。
温暖な海洋性気候と、はるか南極から北上してくるフンボルト寒流のおかげで、近海には数多くの回遊魚が泳いでいる。
1574年にスペインの船乗り、ファン・フェルナンデスによって発見されたことから、ファン・フェルナンデス諸島と命名された。

この諸島は、太平洋を航海するものにとって水や食料、それに薪や材木を補給する最適な場所として知られていた。とはいえ、立ち寄るといっても、数年に1、2度きりのことだが。

そういうわけで、セルカークはこの無人島での生活を始めるのである。
孤独、恐怖、飢え、寒さ…、想像を絶する日々だったに違いない。
すくなくとも、ロビンソン・クルーソーのサバイバル生活には、常に「読者」という語りかける存在がある。目に見えない、本人も知らない友だ。
ところが現実のセルカークには、まったく何もない。
これまでいた人間社会とは隔絶した、残酷な孤独。
無人島にいたのは4年4カ月だが、その苦しみは言葉には言い尽くせないものだったと思う。
ただし、セルカークには、しっかり見張って見逃さなければ、やがて何らかの船が島にやってきて助けだされるという希望があった。それを頼りに生き抜くことができたのではないか。
その助けは今週に来るかもしれない、来月かもしれない。
そうやって、見張り台と定めた場所で、毎日海を見張って暮らしていたのだろうと思う。

しかし、生きていかなければならないから、火を起こし、家を建て、ヤギを捕まえ、ヤギの皮で衣服をつくり…と、ロビンソン・クルーソー同様、サバイバル生活を展開していく。
いや、逆だ。
ロビンソン・クルーソーがセルカークと同様に、さらに想像の翼を広げて、わくわくするサバイバル生活を展開していったのだ。

1709年、ついにイギリスの私略船団(つまり海賊船)、デューク号とダギンズ号が島にやってきた。
総指揮官はキャプテン・ウッズ・ロジャーズ。
セルカークは不眠不休で火を燃やし、一晩中信号を送り続けた。

救い出されたとき、セルカークの髪とひげは伸び放題。顔や手足は真っ黒にただれ、見たところは人種不明。動物の毛皮でできた帽子、上着、膝までのズボンを身につけていたそうだ。そして涙をポロポロこぼしながら、意味不明のことを言い続けた。船乗りたちが必死で聞き取ろうとすると、どうやら、「ヘルプ・ミー、ヘルプ」と繰り返していることがわかった。
こうして、アレクサンダー・セルカークの無人島生活は終止符を打たれた。

1711年にイギリスに戻ったセルカークは、1718年に、懲りずにHMSウェイマス号に航海士として乗船。1721年12月13日、ガーナのケープ・コースト沖で悪性の伝染病、黄熱病にかかり死亡。
セルカーク、45歳。

彼の前代未聞の体験は、ダニエル・デフォーの手によって膨らまされ、脚色され、物語化されて、1719年に小説として出版される。
『ヨークの船乗り、ロビンソン・クルーソーの生涯と世にもまれな驚くべき冒険の数々──アメリカ大陸沿岸、オリノコ川河口近くの無人島に漂着した、難破船ただ一人の生き残りにして、28年もの独居生活の後、奇しくも海賊のおかげで、ついに脱出に成功した男の自叙伝』という長いタイトルの小説だった。

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