サラ☆の物語な毎日とハル文庫

『探求するファンタジー』第七章についてのノート

成蹊大学人文叢書7として風間書房から出ている『探求するファンタジー──神話からメアリー・ポピンズまで』を再読。
学者8人がそれぞれの研究分野について、成蹊大学で講義した内容をまとめたものだ。
(大学の枠を超えて、各分野の教授が集まっている。一章の太古の神話について語った吉田敦彦学習院大学名誉教授の論稿には、興味をかきたてられ、興奮した。)

8章からなっており、どの章も平均して面白いというわけではないのだけど、大熊昭信成蹊大学文学部教授の論稿=7章の「メアリー・ポピンズは魔女か──ファンタジーとしての児童文学の転覆的効果」は参考になるし、面白かった。
一部分を抜書きして、記録しておきたい。

★ジャンニ・ロダーリは「物語は<ファンタジーの二項式>によって誕生しうる」といって、「物語は『もし~なら、どうなるだろう』式の質問形式になったとき、初めて動き出す」といっている。
具体的に言えば、「黒い」と「太陽」を二項式に導入して、もし太陽が黒ならどうなるだろうと想定し、それをもとにその設定が辻褄があうように「黒い太陽」の世界を構成すれば、そこにファンタジー(幻想的物語)が発生するというのである。

★(『不思議の国のアリス』では…)<相容れないものの並存>の原理は単語のレヴェルから物語のレヴェルまで貫徹している。単語のレヴェルではあの有名な「バターつきパン蝶」もそうだし、「偽ウミガメ」もそうである。「バターつきパン」bread and butterと「蝶け」butterflyが「バター」butterという音が共通しているために強引に結合され、自然界には存在しない昆虫が生まれ、ファンタジーが発生し、そのことで常識が揺さぶられ、転覆的効果が発動している。

★メアリー・ポピンズは、魔法を駆使するものの、あくまでそれをひた隠す有能な乳母の姿を纏っている。

★メアリー・ポピンズが家庭教師に身をやつした可愛い魔女であることにはかわりはないのだが、そのテキストに、濃厚な豊穣儀礼や豊饒の女神とのかかわりを示す箇所があることは当然なのである。そこに地母神の神話や母系制を読み取り、果てはフェミニズムを読みとることとは矛盾しない。じつはそうしたところにも「文学」としての『メアリー・ポピンズ』シリーズのテキストの豊かさがある。

★メアリー・ポピンズそのひとも、そうした造化の女神たちつまりは「母なる女神」の系譜に連なる。
 この男性ならぬ女性の宇宙創造のモチーフには、父権制社会以前の母権制社会につながるものがある。

★グレート・マザーは、前六世紀頃トラキアからギリシャやローマに伝播したもので、ローマ時代にはミトラ教やイシス崇拝と並んで尊崇された異神である。
……してみると、このコリーおばさんの表象はといえば、その大女の二人の娘を含めて、どうやらこうした豊饒の女神のそれであり、ひとことでいえば、グレート・マザー(大地母神)の衣鉢を継いでいると思われる。

★どうやらメアリー・ポピンズは、グレート・マザーへの仰望を満たすものとして魔女の姿で児童文学という物語の中に召還されている。

★(メアリー・ポピンズの誕生日を祝うロンドン動物園での真夜中の祝宴について→)
人間によって差異化され、区別され、差別されているこの世の存在のすべてが、人間による差異化以前のありようとして同一のものとなるのである。それがキングコブラのいう「鶏と、けものと、石と、星と──わたくしたちは、みんなおなじ、みんなおなじ──」という、いかにも深遠な思想に表明されている。
むろんそのぶっきらぼうなまでの思想表現の直裁さに児童文学のジャンル的特質があるのだが、それはまた弱肉強食の現実についても、結局「食べることも食べられることも結局は同じことだ」という思想にもなる。
なぜならこの世の存在はすべて同じ物質から成り立っているのだからというのだ。
それをたとえば「食べること」と「食べられること」という具合に能動態、受動態といった形で、差異化にこれ務めるのが言語であるが、その言語を破壊することで差異化以前の状態へと回帰するという寸法である。

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