(2017年公開の映画『赤毛のアン』より)
物語の最後に、アンは道の曲がり角に突き当たる。
クイーン学院で懸命に勉強した結果、
アンはエイヴリー奨学金を得て、大学進学への道を切り開く。
けれどもそのタイミングで、
アンを心から愛してくれた育ての親のマシュウが亡くなってしまうのだ。
マシュウのお葬式がすんでしばらくして、
町の眼科医に診てもらったマリラは、
きちんと対応しなければ見えなくなると言われ、落胆して帰ってくる。
その姿に心を痛めたアンは、
夕闇のなか、涙と重苦しい心を抱えて東の部屋の窓際にすわっていた。
自分が大学に行けばマリラは一人になる。
大切なマリラを一人にしておくわけにはいかない…。
輝く未来に続くと思える道をあきらめるのは、苦しい選択だ。
しかしアンは決心する。
「ベッドに入るころにしは唇には微笑がうかび、心は平和になっていた。
アンは自分のすべきことを見てとった。
これを避けずに勇敢にそれを迎えて生涯の友としようと決心した。
──義務もそれにぶつかるときには友となるのである」
こうして、マリラを一人にはしておけないと考えたアンは、
奨学金を断り、アヴォンリーに戻って学校の先生になることを決意する。
マリラはこう言う。
「あんたがいてくれたらどんなに心強いかしれないけれど、
そんなことはできないよ。
わたしのためにあんたを犠牲にするなんて」
それに対し、 アンはちっとも犠牲ではないと明言する。
グリン・ゲイブルスを手放すことにくらべたら…。
アンはこんなふうに言うのだ。
…あたしがクイーンを出てくるときには、
自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。
いつもさきまで、ずっと見とおせる気がしたの。
ところがいま曲がり角にきたのよ。
曲がり角をまがった先になにがあるのかは、わからないの。
でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。
それにはまた、それのすてきによいところがあると思うわ。
その道がどんなふうにのびているかわからないけれど、
どんな光と影があるのか ──どんな景色が広がっているのか
──どんな新しい美しさや曲がり角や、丘や谷が、そのさきにあるのか、
それはわからないわ。
それはわからないけれど、
自分が何を最優先に考え、どんなことを大事に生きるのかは、
自分で決めることができる。
読者の共感を呼ぶ箇所は、昔も今も同じだ。
曲がり角はとつぜん前方に見えてくる。
道には必ず曲がり角がある。
勇気をもって、毅然と角を曲がり、新しい景色を受け入れること。
アンの物語は、そう教えてくれる。