『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:17織田信長黒印状 天正三年五月廿六日

2019-01-05 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

*兵部太輔→本当は兵部大輔

はなるべく原文のままとしました。


17織田信長黒印状 天正三年五月廿六日

<本文>

 去る二十一日(長篠での)合戦のことにつ

いてはすでに書面でお伝えし(そちらで)お聞

きになったとおりである。即時に(敵勢を)切

り崩し、数万人を討ち果たしたが、四郎(武田

勝頼)の首はまだ見ていない。大方切り捨てて

(一部は)河へ漂う武者(の遺骸が)若干あっ

たので、その中にあったのかもしれない。いず

れにせよ、甲(斐)・信(濃)・駿(河)・三

(河)の軍兵が相まみえた戦いで(四郎を)生

残させたことはなかろう(と思う)。近年の鬱

憤を散じた(次第である)。

 これから申し上げる通り、京都並びに(近)江・

越(前)方面について、私が諸事情で手間取って

いるうちに(親の武田)信玄入道は言うことに表

裏を構え、(私からの)旧恩を忘れ恣意の行動を

とっていたし、(子の)四郎(勝頼)もまた同様

に是非のない行動をとっていた。いつでも(この

信長が)手合わせすれば、今回のように太利を得

るということは案に違わない(自明の理の)こと

である。祝着至極である。

 この結果、(貴殿が活動されている地域にある)

小坂(=大坂)本願寺が焦点となる。現在は兵数

が少なく(今すぐには手を付けられないが)、近い

うちに上洛できるはずなので、お会い(して打合せ)

する機会もあると思う。恐々謹言。

 天正三年五月廿六日 信長(黒印)

 長岡兵部太輔(藤孝)殿

 ※天正三年=1575年


**純野のつぶやき**

天正三年(1575年)の前回の書状(五月廿一

日)の5日後の日付の書状です。信長公は、5月25

日には三河経営の指示を下し、岐阜へ帰陣し始め

ていますので、この書状はその途中で出されたも

のと思われます。

 注目されるのは、

1)信長公の情報網では上記の通り「長篠の戦い

で敵将四郎勝頼を討ち果たしたはずだが首が見つ

からない」ということになっていたようです。初

めて知りました!

2)長篠の戦いの直後なのに「次のターゲットは

本願寺である!」と信長公は長岡藤孝に伝えてい

ます。もしかしたら藤孝のほうからも本願寺攻略

がこれからの重要な課題であることを伝えていた

のかもしれません。

3)その後信長の軍は同年7~8月に越前征伐に向

かうことになりますが、その原因が武田信玄・勝

頼親子にあると明言しています。

 あいかわらず長岡藤孝と手紙のやり取りをする

信長公もマメでございます。ひょっとしたらこの

頃の二人の情報網の速さ・正確さは、他の勢力を

寄せ付けない日本最高のレベルにあったのかもし

れません。                                                        
                  
                     以上


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