『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

武井爾云(たけゐじうん)[2/2]

2018-02-02 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
武井爾云(たけゐじうん)[2/2]

〔現代仮名遣い〕たけいじうん


1580年3月北条氏政の使いが上洛し本能寺で

    土産を進上したとき、使いは二位法

    印・滝川左近・佐久間信盛がつとめ、

    関東衆は「関東八州を信長の分国に」

    と申上する。

1581年2月京都の馬揃えで、七番手で山姥の

    姿で参加。

1582年5月信長は上国した徳川家康一行の苦

    労をねぎらうため、安土城惣見寺で

    舞と能を興行する。近衛前久・信長・

    徳川家康・穴山信君・楠正虎・長雲・

    宮内卿法印・二位法印らが見学。幸若

    義重が舞をつとめよいできであったが、

    丹波猿楽の梅若家久の能は出来が悪く

    信長から折檻を受ける。信長の要望に

    より幸若義重は再度舞を舞い、信長か

    ら黄金十枚を下され、梅若家久も世間

    体を気にした信長から金子十枚を下さ

    れる。


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