【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
35織田信長黒印状 天正七年正月十二日
追而 この鯨(肉)は(正月)九日尾張千多郡
(=現在の知多郡)で採れたとのことで到着した
ものである。すぐに禁裏の御二御所(正親町天
皇と誠仁親王か)に進上したところ、我々が服用
できるようにおすそ分けを受けたものである。分
相応の大きさに(皆で)とりわけ(主上からの)厚
意に感謝していただきたい。
<本文>
(貴殿からの)書状を見させていただいた。
先だってしきりに下石(おろし)彦右衛門尉(頼重)
から(貴殿のもとへ茨木城)方面の情勢について
申上があったとのこと。いよいよ油断なく、馳走
(褒美)を専一に取らせるよう。なお(貴殿ら)父子
が(丹後・丹波方面で)替り番で在所に詰めてい
ることは、(一家が同時に討ち取られない工夫と
して)しかるべきことと思う。また(我が方に)見参
することがあれば、直接自分から口上を述べたい。
天正七年正月十二日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正七年=1579年
**純野のつぶやき**
天正六年(1578年)の前回の書状(十二月十六
日)の二十七日後の書状です。書状に「追而」と
あるのは"おってがき”と言い、本文と関係ないこ
とを記すときの当時の常用句らしいです。
しかし丹後・丹波では命がけの八田城攻略戦
をおこなっているのに、信長公からは「知多半島
でとれた鯨の差し入れ」ですか・・長岡藤孝も嫡
男忠興も、最前線の陣でずっこけたのではない
かと思います!ただ、1月の寒い時期だからこそ、
鯨肉を知多半島→安土→京都→丹後・丹波と移
動できたんでしょうね。夏場だとすぐ傷んでしまう
ので・・それとも現代でも福岡の郷土料理にのこ
る"塩鯨”のように塩漬けで長期保存できるように
しておいたのかな・・
以上
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
35織田信長黒印状 天正七年正月十二日
追而 この鯨(肉)は(正月)九日尾張千多郡
(=現在の知多郡)で採れたとのことで到着した
ものである。すぐに禁裏の御二御所(正親町天
皇と誠仁親王か)に進上したところ、我々が服用
できるようにおすそ分けを受けたものである。分
相応の大きさに(皆で)とりわけ(主上からの)厚
意に感謝していただきたい。
<本文>
(貴殿からの)書状を見させていただいた。
先だってしきりに下石(おろし)彦右衛門尉(頼重)
から(貴殿のもとへ茨木城)方面の情勢について
申上があったとのこと。いよいよ油断なく、馳走
(褒美)を専一に取らせるよう。なお(貴殿ら)父子
が(丹後・丹波方面で)替り番で在所に詰めてい
ることは、(一家が同時に討ち取られない工夫と
して)しかるべきことと思う。また(我が方に)見参
することがあれば、直接自分から口上を述べたい。
天正七年正月十二日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正七年=1579年
**純野のつぶやき**
天正六年(1578年)の前回の書状(十二月十六
日)の二十七日後の書状です。書状に「追而」と
あるのは"おってがき”と言い、本文と関係ないこ
とを記すときの当時の常用句らしいです。
しかし丹後・丹波では命がけの八田城攻略戦
をおこなっているのに、信長公からは「知多半島
でとれた鯨の差し入れ」ですか・・長岡藤孝も嫡
男忠興も、最前線の陣でずっこけたのではない
かと思います!ただ、1月の寒い時期だからこそ、
鯨肉を知多半島→安土→京都→丹後・丹波と移
動できたんでしょうね。夏場だとすぐ傷んでしまう
ので・・それとも現代でも福岡の郷土料理にのこ
る"塩鯨”のように塩漬けで長期保存できるように
しておいたのかな・・
以上