『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:35織田信長黒印状 天正七年正月十二日

2020-06-15 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


35織田信長黒印状 天正七年正月十二日

 追而 この鯨(肉)は(正月)九日尾張千多郡

(=現在の知多郡)で採れたとのことで到着した

ものである。すぐに禁裏の御二御所(正親町天

皇と誠仁親王か)に進上したところ、我々が服用

できるようにおすそ分けを受けたものである。分

相応の大きさに(皆で)とりわけ(主上からの)厚

意に感謝していただきたい。

<本文>

 (貴殿からの)書状を見させていただいた。

先だってしきりに下石(おろし)彦右衛門尉(頼重)

から(貴殿のもとへ茨木城)方面の情勢について

申上があったとのこと。いよいよ油断なく、馳走

(褒美)を専一に取らせるよう。なお(貴殿ら)父子

が(丹後・丹波方面で)替り番で在所に詰めてい

ることは、(一家が同時に討ち取られない工夫と

して)しかるべきことと思う。また(我が方に)見参

することがあれば、直接自分から口上を述べたい。

天正七年正月十二日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

   ※天正七年=1579年


**純野のつぶやき**

天正六年(1578年)の前回の書状(十二月十六

日)の二十七日後の書状です。書状に「追而」と

あるのは"おってがき”と言い、本文と関係ないこ

とを記すときの当時の常用句らしいです。

 しかし丹後・丹波では命がけの八田城攻略戦

をおこなっているのに、信長公からは「知多半島

でとれた鯨の差し入れ」ですか・・長岡藤孝も嫡

男忠興も、最前線の陣でずっこけたのではない

かと思います!ただ、1月の寒い時期だからこそ、

鯨肉を知多半島→安土→京都→丹後・丹波と移

動できたんでしょうね。夏場だとすぐ傷んでしまう

ので・・それとも現代でも福岡の郷土料理にのこ

る"塩鯨”のように塩漬けで長期保存できるように

しておいたのかな・・

以上

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