『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:34織田信長朱印状 天正六年十二月十六日

2020-06-14 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部は原文で"虫食い空欄”となって

いる部分ですので完全に純野の推察です。


34織田信長朱印状 天正六年十二月十六日

<本文>

 わざわざ一書をもって申上された内容を読ま

せていただいた。今後(丹後・丹波方面について)

隙が明くだろうとの見方につき、近々下向すべき

かと考える。したがって、その方面への(砦などの)

番で油断することなく、番の者が敵地で調略を見

事に実行したなら馳走(褒美)を取らしたり、詰め

替えの在所を見舞ったりして、留守の時の堅守を

固く申し付けていただきたい。多少落度がある者

が出たとしても(攻める意図での失敗であれば)

いつでも苦しからずである。来年早々にもそちら

方面(丹後・丹波)に罷り越し、摂津の尼崎・花熊

への手当てを申し付け、すぐに大坂へ詰め寄りた

いと考えている。当方の意図を(詳しく)伝えたい

ので、あえて使者を立て口上させる次第である。

天正六年十二月十六日 信長(朱印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

 長岡与一郎(忠興)殿

  ※天正六年=1578年


**純野のつぶやき**

天正六年(1578年)の前回の書状(十一月二十日)

の二十六日後の書状です。この書状の後、年末か

ら年始にかけて長岡軍は惟任光秀の援軍を求め、

さらに一色義道周辺の武将を身方につけ、義道の

居城八田城を攻撃していることから、書状の前半

に地名は出てこないもののおそらく丹州(丹後・丹

波)のことと推測されます。

 信長公も、この1か月では伊丹城に籠もる荒木村

重を攻略する作戦に徹していますが、敵城の周りを

取り囲むように着々と付城を造営させて無理攻めは

しないなど、この時点でもまだ「謝るなら許してやろ

う」という温情が感じられるようです。丹後・丹波方面

について長岡藤孝・忠興父子にも無理攻めを命じて

いませんし、なにか尾張の各敵城を攻略した時、城ま

わりに鹿垣(ししがき)・逆茂木(さかもぎ)を結いまわ

し、昼となく夜となく鉄砲を打ち込んで降参・退城まで

じっくり待っていた懐かしい戦法のような気がします。

以上



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