【三好氏の歴史】
*阿波国を本拠とする戦国大名。小笠原氏
の一族が阿波国三好郡に移り、三好姓を
称したとされるが未祥。
*応仁の乱の時、式部少輔・之長父子は、
阿波国守護細川成之に従い、細川勝元
方(東軍)として戦った。
*永正四年(1507)之長は細川澄元を擁立し、
摂津守護代として、弱体化した室町幕府の
政権奪取をもくろんだが、同十七年(1520)
細川高国に敗れて殺害される。
*大永七年(1527)之長の孫元長は高国を
滅ぼし、澄元の子晴元を管領の地位に置き、
自身は山城守護代として京の実権を握った。
しかし、天文元年(1532)に晴元と木沢
長政によって討たれた。
*元長の子長慶は、摂津守護代として晴元
の支配下にあったが、同十八年(1538)
晴元を追放し、高国の一族氏綱を管領に
立て、幕政の主導権を握る。しかし、家臣
の松永久秀に徐々に実権を奪われ、嫡子
義興の死とういう不運の中、養子義継を
むかえた後永禄七年(1564)没する。
*長慶死後は、その養子義継・三好三人衆
(三好長逸・三好政康・岩成友通)・松永
久秀が融合・分離を繰り返し、畿内は
混乱状態に陥るが、同十一年(1568)信長
の義昭上洛戦の中で青竜寺城の岩成は降参。
三好長逸は芥川城から退散する。
*義継は河内半国守護となったが、将軍義昭
に応じて信長に背いた為、天正元年(1573)
河内若江城で滅ぼされた。
※一度は天下が手に届くところまで上り
詰めたのに、判断を誤り信長でなく義昭
についてしまい滅びてしまう・・諸行無常
でございます。
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*阿波国を本拠とする戦国大名。小笠原氏
の一族が阿波国三好郡に移り、三好姓を
称したとされるが未祥。
*応仁の乱の時、式部少輔・之長父子は、
阿波国守護細川成之に従い、細川勝元
方(東軍)として戦った。
*永正四年(1507)之長は細川澄元を擁立し、
摂津守護代として、弱体化した室町幕府の
政権奪取をもくろんだが、同十七年(1520)
細川高国に敗れて殺害される。
*大永七年(1527)之長の孫元長は高国を
滅ぼし、澄元の子晴元を管領の地位に置き、
自身は山城守護代として京の実権を握った。
しかし、天文元年(1532)に晴元と木沢
長政によって討たれた。
*元長の子長慶は、摂津守護代として晴元
の支配下にあったが、同十八年(1538)
晴元を追放し、高国の一族氏綱を管領に
立て、幕政の主導権を握る。しかし、家臣
の松永久秀に徐々に実権を奪われ、嫡子
義興の死とういう不運の中、養子義継を
むかえた後永禄七年(1564)没する。
*長慶死後は、その養子義継・三好三人衆
(三好長逸・三好政康・岩成友通)・松永
久秀が融合・分離を繰り返し、畿内は
混乱状態に陥るが、同十一年(1568)信長
の義昭上洛戦の中で青竜寺城の岩成は降参。
三好長逸は芥川城から退散する。
*義継は河内半国守護となったが、将軍義昭
に応じて信長に背いた為、天正元年(1573)
河内若江城で滅ぼされた。
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