【畠山氏の歴史】
*清和源氏足利一族。足利義兼の子義純が、
秩父平氏流畠山重忠の旧領を与えられて
「畠山」を称した。嫡流は室町幕府管領家
で、歴代当主は尾張守となった。
*奥州畠山氏は、南北朝期足利尊氏に従い、
奥州探題となり、陸奥国の賀美・黒川両郡
の分郡守護を務めた。しかし、のち奥州吉良
氏に攻められて衰退した。二本松を本拠と
して戦国期まで存続したが、伊達政宗に
滅ぼされた。
*美濃畠山氏は、一時日向守護に補任される
が、島津氏と盟約を結んだ頃から衰退し、
今川了俊に臣従したのちの事跡は不明。
*これらに対して嫡流家は、和泉・紀伊守護
となり、鎌倉府の執事を務めた。一時没落
したが、越前守護として復活し、明徳二年
(1391)には侍所頭人と尾張守護となり、
さらに山城・河内・越中・能登・佐渡の守護
にも補任された。これらのうち、河内・紀伊・
能登・越中の四カ国は、畠山氏の分国として
戦国末期まで保持された。
*応永五年(1398)侍所家から管領家へと
昇格し、将軍義持・義教の宿老として幕府内
で重要な地位を占めた。
*文安五年(1448)以降、家督をめぐって
畠山家の内訌が起こり、その後畠山家家督
争い・山名氏と細川氏の対立・足利義視と
義尚の家督争い・将軍義政と室日野富子の
不和等が複雑に絡み合い、応仁の乱へと突入
していく。明応期(1492~1501)以降は
細川家の家督争いと連動しながら内訌が続き、
その勢力は衰退していった。
*奥州畠山氏・美濃畠山氏以外の庶家に、満則
に始まる能登畠山家がある。嫡流家及び能登
畠山家は、子孫が江戸幕府の高家となった。
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*清和源氏足利一族。足利義兼の子義純が、
秩父平氏流畠山重忠の旧領を与えられて
「畠山」を称した。嫡流は室町幕府管領家
で、歴代当主は尾張守となった。
*奥州畠山氏は、南北朝期足利尊氏に従い、
奥州探題となり、陸奥国の賀美・黒川両郡
の分郡守護を務めた。しかし、のち奥州吉良
氏に攻められて衰退した。二本松を本拠と
して戦国期まで存続したが、伊達政宗に
滅ぼされた。
*美濃畠山氏は、一時日向守護に補任される
が、島津氏と盟約を結んだ頃から衰退し、
今川了俊に臣従したのちの事跡は不明。
*これらに対して嫡流家は、和泉・紀伊守護
となり、鎌倉府の執事を務めた。一時没落
したが、越前守護として復活し、明徳二年
(1391)には侍所頭人と尾張守護となり、
さらに山城・河内・越中・能登・佐渡の守護
にも補任された。これらのうち、河内・紀伊・
能登・越中の四カ国は、畠山氏の分国として
戦国末期まで保持された。
*応永五年(1398)侍所家から管領家へと
昇格し、将軍義持・義教の宿老として幕府内
で重要な地位を占めた。
*文安五年(1448)以降、家督をめぐって
畠山家の内訌が起こり、その後畠山家家督
争い・山名氏と細川氏の対立・足利義視と
義尚の家督争い・将軍義政と室日野富子の
不和等が複雑に絡み合い、応仁の乱へと突入
していく。明応期(1492~1501)以降は
細川家の家督争いと連動しながら内訌が続き、
その勢力は衰退していった。
*奥州畠山氏・美濃畠山氏以外の庶家に、満則
に始まる能登畠山家がある。嫡流家及び能登
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