【土岐氏の歴史】
*清和源氏頼光の一流。美濃国土岐郡が本願
の地。鎌倉時代から美濃国守護を世襲する。
*南北朝の内乱期は尊氏と行動を共にし、
武名をあげて尊氏の信頼を得た。そのため
頼遠の時、光厳上皇の行列に狼藉を働き、
処罰されても、土岐氏の勢力が揺らぐことは
なかった。
*観応二年(1351)には尾張国守護も兼任し、
宿老として幕政に重きをなした。明徳元年
(1390)には美濃の乱が起こり、守護の康行
は美濃を没落したが、翌年には伊勢国守護に
復帰した。
*康行に代わって美濃国守護となったのは、
一族の頼世である。頼世は美濃守となり、
以降美濃国の支配を深めていった。応仁の乱
には西軍として参加。1474年には土岐成範が
延暦寺衆徒や多賀高忠を撃破。1477年には
成頼が斎藤妙椿の仲介により、足利義視・
義材父子を擁して美濃へ下国するなど活躍は
あったものの、守護代斎藤氏の伸長により
支配力を弱めていく。
*明応四年(1495)継嗣問題と家臣の勢力争い
が絡んで船田合戦が起き、頼武・頼芸の兄弟間
の争いには外部から朝倉孝景・佐々木六角定頼・
織田信秀らの介入を許すと、実権は斎藤道三が
握ることとなり、頼武の子頼純は道三の婿に
取られたのち殺害され、頼芸は天文二十一年
(1552)斎藤道三に美濃を追われ没落した。
その子孫は江戸時代には旗本として存続した。
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*清和源氏頼光の一流。美濃国土岐郡が本願
の地。鎌倉時代から美濃国守護を世襲する。
*南北朝の内乱期は尊氏と行動を共にし、
武名をあげて尊氏の信頼を得た。そのため
頼遠の時、光厳上皇の行列に狼藉を働き、
処罰されても、土岐氏の勢力が揺らぐことは
なかった。
*観応二年(1351)には尾張国守護も兼任し、
宿老として幕政に重きをなした。明徳元年
(1390)には美濃の乱が起こり、守護の康行
は美濃を没落したが、翌年には伊勢国守護に
復帰した。
*康行に代わって美濃国守護となったのは、
一族の頼世である。頼世は美濃守となり、
以降美濃国の支配を深めていった。応仁の乱
には西軍として参加。1474年には土岐成範が
延暦寺衆徒や多賀高忠を撃破。1477年には
成頼が斎藤妙椿の仲介により、足利義視・
義材父子を擁して美濃へ下国するなど活躍は
あったものの、守護代斎藤氏の伸長により
支配力を弱めていく。
*明応四年(1495)継嗣問題と家臣の勢力争い
が絡んで船田合戦が起き、頼武・頼芸の兄弟間
の争いには外部から朝倉孝景・佐々木六角定頼・
織田信秀らの介入を許すと、実権は斎藤道三が
握ることとなり、頼武の子頼純は道三の婿に
取られたのち殺害され、頼芸は天文二十一年
(1552)斎藤道三に美濃を追われ没落した。
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