【長尾氏の歴史】
*高望王の子平良兼の子孫。桓武平氏。相模
国鎌倉郡長尾郷が本貫の地。南北朝から
戦国期にかけて、山内上杉氏の家宰・奉行人
として、上野・武蔵・伊豆・越後の守護代・
郡代を務める。関東では鎌倉(下野足利)流、
上野白井流、同惣社流の各家に分立した。
越後では山内上杉氏の庶流、守護家の越後
上杉氏の被官として越後各地に配され、府内
(守護代)、古志(栖吉)、上田などの各家
に分立した。
*越後守護代家の為景の時、最初は上杉家
重臣として1504年関東の山内上杉氏を応援
にいったり1506年越中の一向一揆と戦った
りしていた。がしかし、1507年には守護上杉
房能を攻めて自刃に追い込み、自分の婿上条
定実を次期守護に据えたり、1510年には房能
の弔い合戦に越後に進行してきた関東管領の
上杉顕定を越後国内で敗死させるなど、非道
の限りを尽くして越後国の支配を手中にした。
*為景の没後、子の長尾景虎は兄晴景を助けて、
国内の動揺を平定。のち家督を譲られ、長尾
氏の本拠春日山城に入ってこれを整備する。
1546年北条氏康に追われて逃亡してきた山内
上杉憲政をたすけて関東・北信に出兵し、北条
氏・武田氏と度々交戦する。1560年には山内
上杉憲政を伴い関東へ進軍し、厩橋城を攻略
して関東進攻の拠点とする。厩橋には憲政を
置く。1561年には、憲政との連合軍11万3千で
小田原城の北条氏康を攻囲するが、武田信玄・
今川氏真の援軍によって退却する。その直後、
鶴ヶ丘八幡宮の社前で山内上杉憲政が長尾景虎
に上杉家の名跡と関東管領職を譲る約束をする。
憲政の名から篇諱を受け「上杉政虎」と名乗る。
*その後武田信玄と数度の交戦を行ないながら、
関東攻略・越中攻略の戦いを続け、能登・加賀
まで進出し越前を制した信長と対抗する。1578年
3月13日関東進攻の準備中、春日山城で死亡。
直後、北条氏から謙信の養子に入っていた北条
氏秀こと上杉景虎と、謙信の姉の子で同じく
謙信の養子に入っていた上杉景勝が、跡目争い
で御館の乱を引き起こし、1579年3月景勝が
景虎を攻め亡ぼし上杉氏を継ぐ。
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*高望王の子平良兼の子孫。桓武平氏。相模
国鎌倉郡長尾郷が本貫の地。南北朝から
戦国期にかけて、山内上杉氏の家宰・奉行人
として、上野・武蔵・伊豆・越後の守護代・
郡代を務める。関東では鎌倉(下野足利)流、
上野白井流、同惣社流の各家に分立した。
越後では山内上杉氏の庶流、守護家の越後
上杉氏の被官として越後各地に配され、府内
(守護代)、古志(栖吉)、上田などの各家
に分立した。
*越後守護代家の為景の時、最初は上杉家
重臣として1504年関東の山内上杉氏を応援
にいったり1506年越中の一向一揆と戦った
りしていた。がしかし、1507年には守護上杉
房能を攻めて自刃に追い込み、自分の婿上条
定実を次期守護に据えたり、1510年には房能
の弔い合戦に越後に進行してきた関東管領の
上杉顕定を越後国内で敗死させるなど、非道
の限りを尽くして越後国の支配を手中にした。
*為景の没後、子の長尾景虎は兄晴景を助けて、
国内の動揺を平定。のち家督を譲られ、長尾
氏の本拠春日山城に入ってこれを整備する。
1546年北条氏康に追われて逃亡してきた山内
上杉憲政をたすけて関東・北信に出兵し、北条
氏・武田氏と度々交戦する。1560年には山内
上杉憲政を伴い関東へ進軍し、厩橋城を攻略
して関東進攻の拠点とする。厩橋には憲政を
置く。1561年には、憲政との連合軍11万3千で
小田原城の北条氏康を攻囲するが、武田信玄・
今川氏真の援軍によって退却する。その直後、
鶴ヶ丘八幡宮の社前で山内上杉憲政が長尾景虎
に上杉家の名跡と関東管領職を譲る約束をする。
憲政の名から篇諱を受け「上杉政虎」と名乗る。
*その後武田信玄と数度の交戦を行ないながら、
関東攻略・越中攻略の戦いを続け、能登・加賀
まで進出し越前を制した信長と対抗する。1578年
3月13日関東進攻の準備中、春日山城で死亡。
直後、北条氏から謙信の養子に入っていた北条
氏秀こと上杉景虎と、謙信の姉の子で同じく
謙信の養子に入っていた上杉景勝が、跡目争い
で御館の乱を引き起こし、1579年3月景勝が
景虎を攻め亡ぼし上杉氏を継ぐ。
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