『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:斯波氏

2016-09-25 00:00:00 | 戦国名家の系譜
【斯波氏の歴史】

*足利泰氏の長男家氏に始まる、足利一門中

 の名族。鎌倉期には御家人として活動した。

 斯波の家名は、所領の陸奥国斯波(紫波)に

 由来する。

*高経は足利尊氏・義詮に仕え、康安の変後、

 子息義将を幕府執事に登用するなどして幕政

 を運営するも、貞治五年(1366)高経・義将

 父子は失脚し、分国越前に没落した。

*翌六年(1367)の高経没後、すぐに義将は

 幕府に復帰し、康暦の政変で細川頼之を排斥

 すると、将軍義満・義持をたすけ、三度管領

 になるなど幕府宿老として重きをなし、以後

 細川・畠山両氏とともに、三管領の一家と

 して幕政を左右した。

*義将の子義教(義重)は、従来の分国越前に

 加え、尾張・遠江の守護を兼帯し、以後この

 三国が世襲された。

*義教の孫義健の没後、一族の義敏と渋川義鏡

 の子義廉とが家督を争い、応仁の乱の一因とも

 なる。

*乱後、越前は朝倉氏、尾張は織田氏、遠江は

 今川氏に奪われ没落し、戦国期の義銀まで

 僅かに命脈を保った。その義銀も1560年5~6月

 頃信長から国外に追放される。伊勢・河内を

 流浪した後1600年に没したという。


 ※三管領に列した名族も最後は伊勢・河内を

  流浪のうえ没するという・・“諸行無常”で

  ございます。


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