【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
29織田信長自筆感状(長岡忠興あて) 天正
五年十月二日
<本文>
(松永一味の籠もる片岡城の)陣から(貴殿ら
に殊勝な軍働きがあった旨)折紙が届き拝見さ
せていただいた。いや増しの軍働きとのことで
ある。油断なく(下臣に)馳走(褒美)されるよう
願う。かしく。
天正五年十月二日
長岡与一郎(忠興)殿
※天正五年=1577年
**純野のつぶやき**
天正五年(1577年)の十月二日付けで信長公が
長岡与一郎忠興に送った自筆感状です。長岡与
一郎忠興は永禄六年(1563年)生まれですので、
この年数えで15歳ですから、軍に同行させた父
藤孝も主君の信長公もヒヤヒヤものだったでしょ
う。十月一日に、長岡藤孝・惟任光秀・筒井順慶・
山城衆らが、松永一味の森秀光・えびな勝正の楯籠
る片岡城を攻略し「藤孝が同行させた子息長岡忠
興・昌興兄弟の活躍が信長公に伝わり信長から感
状を下された」と史実にありますので、この感状は
それを指すものと思われます。
ただ、この戦いで惟任光秀も活躍したらしいの
ですが、信長公の自筆感状がでていたかどうか・・
以上
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
29織田信長自筆感状(長岡忠興あて) 天正
五年十月二日
<本文>
(松永一味の籠もる片岡城の)陣から(貴殿ら
に殊勝な軍働きがあった旨)折紙が届き拝見さ
せていただいた。いや増しの軍働きとのことで
ある。油断なく(下臣に)馳走(褒美)されるよう
願う。かしく。
天正五年十月二日
長岡与一郎(忠興)殿
※天正五年=1577年
**純野のつぶやき**
天正五年(1577年)の十月二日付けで信長公が
長岡与一郎忠興に送った自筆感状です。長岡与
一郎忠興は永禄六年(1563年)生まれですので、
この年数えで15歳ですから、軍に同行させた父
藤孝も主君の信長公もヒヤヒヤものだったでしょ
う。十月一日に、長岡藤孝・惟任光秀・筒井順慶・
山城衆らが、松永一味の森秀光・えびな勝正の楯籠
る片岡城を攻略し「藤孝が同行させた子息長岡忠
興・昌興兄弟の活躍が信長公に伝わり信長から感
状を下された」と史実にありますので、この感状は
それを指すものと思われます。
ただ、この戦いで惟任光秀も活躍したらしいの
ですが、信長公の自筆感状がでていたかどうか・・
以上