徳本上人は江戸時代の念仏行者で、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱え、日本各地を行脚し、民衆の苦難を救った。信者は近畿、東海、信州、関東、東北地方でひろがり、現在も『徳本講』は引き継がれ、人々に大きな影響を与えている。
宝暦元年(1758年)日高町久志の農家に生まれ、幼名は三之丞。
4歳の頃、幼友達の突然の死に驚き、嘆き悲しんでいた。「寅さんはどこへいったんか?また、あえるんか?」と母にたずねました。母は「寅さんは仏様の国へ行ったんよ。死んだ人に会うことなんぞできようか。」という答えだった。母は泣き叫ぶ息子を見るに忍びず、「死ぬというものは、尊い人でも、卑しい人でも若い人でも、年とった人でも、だれ一人免れられんもんや。いったん、死んだら帰ってくることはできん。今の別れを嘆くより、御仏様に頼り、お念仏を唱えるより方法がないんや。いずれまた、極楽浄土で合うことができるよ。」と諭し教えました。母の教えが幼児三之丞の心の奥底に刻み込まれました。
上人が偉くなられた頃、折に触れ、入信の動機を次のように言われていました。
『我、昔、4歳の時、無情の嘆きしは、今もなお、忘れやらじ。』
9歳の頃、とうとう出家したくなり、父母に申し出たが、跡継ぎであった上、真っ正直すぎたので許されなかった。10歳のころには念珠を袖に入れ、念仏を唱えているので、まわりの大人子どもから嘲笑されていた。
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宝暦元年(1758年)日高町久志の農家に生まれ、幼名は三之丞。
4歳の頃、幼友達の突然の死に驚き、嘆き悲しんでいた。「寅さんはどこへいったんか?また、あえるんか?」と母にたずねました。母は「寅さんは仏様の国へ行ったんよ。死んだ人に会うことなんぞできようか。」という答えだった。母は泣き叫ぶ息子を見るに忍びず、「死ぬというものは、尊い人でも、卑しい人でも若い人でも、年とった人でも、だれ一人免れられんもんや。いったん、死んだら帰ってくることはできん。今の別れを嘆くより、御仏様に頼り、お念仏を唱えるより方法がないんや。いずれまた、極楽浄土で合うことができるよ。」と諭し教えました。母の教えが幼児三之丞の心の奥底に刻み込まれました。
上人が偉くなられた頃、折に触れ、入信の動機を次のように言われていました。
『我、昔、4歳の時、無情の嘆きしは、今もなお、忘れやらじ。』
9歳の頃、とうとう出家したくなり、父母に申し出たが、跡継ぎであった上、真っ正直すぎたので許されなかった。10歳のころには念珠を袖に入れ、念仏を唱えているので、まわりの大人子どもから嘲笑されていた。
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