曼荼羅とは?:「本質を有するもの」という意味のサンスクリット語からき
た名称。「胎蔵界」と「金剛界」の曼荼羅を指す。
「胎蔵界曼荼羅」は12の囲いの部分から成り立ち、そこに414尊の
諸仏や諸菩薩が描かれている。中心に大日如来が座し、まわりの4仏
4菩薩画を通じて慈悲の心が四方八方に伝わっていく様を図示されている。
大日如来が宇宙をあまねくてらし、仏の世界を人間の世界に向かっ
て開いて示した理の曼荼羅とみなされる。
「金剛界曼荼羅」は金剛頂教という経典に基づいており、全体が九
等分して描かれている。九等分された一番右下の部分から渦巻き状
に進んで行って、中心に到達する構図になっている。これは人間の
心が進歩向上していく段階を図している。人間が行を重ね仏の世界
に入っていく方向を示した智の曼荼羅とみなされている。
大英博物館に通い、孫文らと友情を温めた熊楠は1900年10月、
14年ぶりに帰国した。両親はすでに亡くなり、何の学位を持た
ない熊楠への親類の目は冷たいものであった。熊楠は翌年、追い
出されるように和歌山市から那智勝浦へ移る。
その那智山麓で、熊楠の学問は飛躍的に高まるのである。
那智山は神域であり、照葉樹林の原生林はそのままである。採集
から戻った熊楠の足を洗ったという湧き水が今も流れている。
この静かな環境の中で研究に集中し、学問的水準をあげていった
のであろう。「南方の曼荼羅」が生まれる。のちの真言宗高野派
管長になる土宣法竜である。二人が知り合ったのは、熊楠がロン
ドン時代。1893年10月にシカゴで行われた万国宗教大会に
参加したのち訪英した彼を紹介された。
翌春、彼が帰国するまで、二人の書簡がロンドンパリ間を何往復
もした。熊楠が帰国したのちも続いていた。
「南方曼荼羅」を書いたのが1903年。宇宙を構成している
そのものである。立体図で前後左右上下、どの方向からでも筋道
が透けて見えるようになっている。その筋道の数は無数にあり、
どの筋道からでも宇宙の真理に到達できるようになっている。
熊楠はその中で最も重要なポイントを萃点と呼ぶ。「南方曼荼羅」
は熊楠の宇宙観、世界観を示した図といわれる。熊楠の親が真言宗
の信者であり、幼いころより仏教説話を聞いて育っっている。その
ため真言宗の教えが染みついている。その土台の上、19世紀末、
ロンドンの時代背景が重要となる。
当時、英国ビクトリア朝の黄金期で、欧州の人文科学自然科学が
開花した時代であった。そのころキリスト教と比較して仏教論が
盛んに登場していた。彼はイギリスの自然科学の方法論と人文
社会科学をよく勉強し自分の仏教思想とヨーロッパの描いた仏教
論を心の中で検証し、格闘させた。その結果、「南方曼荼羅」が
生まれた。「仏教は因縁である。」という。
イギリスでは自然科学の目標に因縁律を発見することであった。
因縁律とは一つの原因があれば一つの結果が生じる。一対一の対応
関係には必然がある。
それが因縁律である。当時の欧州の自然科学で因は解き明かすこと
ができても縁というものが解明不可能であった。
「偶然の出会い」が縁である。彼は偶然性を必然性とともにとらえ
なければ、物事の変化の状況はわからないのではないかと考えた。
それが「南方曼荼羅」である。
直線と曲線があり、直線は必然性を意味する。
ところが、この直線の中に、他の直線とであっても、そのまま直線で
あり続けるものと、出会うことで曲がることもある。その出会いが
偶然性なのだという。
多くの線が出会うところが「萃点」である。ここをおさえると
「いろいろの理を見い出すに易くしてはやい。」
ポイントなのだという。
萃とは集まるを意味し、萃点とは集まる場所である。