1854年5月23日、父喜市、母ユキの長男として生まれた。
14歳の時、龍王神社の社殿建築を請け負った京都の宮大工
に弟子入りした。そして19歳の春、父の病気のため、三尾浦に
帰り、棟梁として働くこととなった。やがて比井崎村小浦の親類
より妻たつをむかえ、二男一女をもうける。
明治16年、三尾浦に初めて堤防を造るという計画があり、
儀兵衛は入札に参加したが、工費で話がまとまらず、防波堤は
昭和初期まで実現しなかった。
彼は、防波堤を造り、よい漁港をもつことによって漁港の振興や
新しい産業となつ養殖場を創ろうと考えていた。
1886年、防波堤の話がまとまらず悩んでいたとき、横浜に住む
従兄から「カナダは漁業や農業でも有望だから一緒にいかない
か?」との手紙が届いた。
ひとまず、横浜に行こうと決心し、家族に知られぬように家を出
て、横浜に向かった。
懐には2銭銅貨2枚であった。
横浜では芳野勘蔵の家で居候をしながら、大工として働く.カナダ
航路の船員から現地の状況を聞き取り、将来が有望であることを
確かめた。郷里に帰り、弟や友人を誘ったが誰一人として一緒に
行くことを希望する者はなく、単身渡航を決心する。
1888年8月、アビシニア号にて横浜港を出帆した。
船賃代わりに船員食堂のコックやボイラーマンとして働いた。
途中暴風雨にあうも、大工の技術を生かして、船の修理もしていた。
14歳の時、龍王神社の社殿建築を請け負った京都の宮大工
に弟子入りした。そして19歳の春、父の病気のため、三尾浦に
帰り、棟梁として働くこととなった。やがて比井崎村小浦の親類
より妻たつをむかえ、二男一女をもうける。
明治16年、三尾浦に初めて堤防を造るという計画があり、
儀兵衛は入札に参加したが、工費で話がまとまらず、防波堤は
昭和初期まで実現しなかった。
彼は、防波堤を造り、よい漁港をもつことによって漁港の振興や
新しい産業となつ養殖場を創ろうと考えていた。
1886年、防波堤の話がまとまらず悩んでいたとき、横浜に住む
従兄から「カナダは漁業や農業でも有望だから一緒にいかない
か?」との手紙が届いた。
ひとまず、横浜に行こうと決心し、家族に知られぬように家を出
て、横浜に向かった。
懐には2銭銅貨2枚であった。
横浜では芳野勘蔵の家で居候をしながら、大工として働く.カナダ
航路の船員から現地の状況を聞き取り、将来が有望であることを
確かめた。郷里に帰り、弟や友人を誘ったが誰一人として一緒に
行くことを希望する者はなく、単身渡航を決心する。
1888年8月、アビシニア号にて横浜港を出帆した。
船賃代わりに船員食堂のコックやボイラーマンとして働いた。
途中暴風雨にあうも、大工の技術を生かして、船の修理もしていた。