「神社合祀令」(じんじゃごうしれい)とは?:
1906年、西園寺公望内閣の原敬内相のもとで出された通達事項。厳格に実行はされなかったが、平田東助内相の頃には激しさを増した。趣旨は、由緒や財産もなく、神職不在で祭祀が行われていない神社を由緒ある神社に統合し,敬神の念を高めるようにという内容である。
全国の神社は、1871年、太政官布告で、官社、府県社郷社、村社、無格社に格付けされていたが、合祀の対象となったのは小さな村社や無格社であった。
合祀に応じない神社は、必ず神職をおき、村社は年120円以上、無格社は年60円以上の報酬を支給のこと。また、基本財産積立法を設け、尊社は500円以上、無格社は200円以上の現金を有し、貯蓄させるものとする。法制化された。合祀は地方官吏の裁量にまかされ、全国でも三重県と和歌山県が特に厳しく実施された。
神社の故事来歴を無視した手あたり次第ともいえる合祀であった。合祀に反対する氏子たちが500円積めば、1000円、1000円を積めば2000円へと引き上げ強引に合祀を進めた。
伐採した木材が金儲けの対象になり、巨樹木の多い神社は逆に狙われ、神職と官吏とが癒着して私腹を肥やすという悪弊が生まれたのである。
熊楠は、3年に及ぶ、那智勝浦での粘菌調査を終え、田辺に腰を落ち着けた。中学時代の友人喜多幅武三郎達がいたからである。今回は、父の友人多屋家で借家住まいを始めた。
しばらくして、熊楠にも身を固める時がやってきた。
統計神社宮司の四女、田村松枝との結婚である。1906年、暑い盛りの結婚式であった。
長男熊弥が誕生すると、熊楠も落ち着きを見せ、田辺の町で研究に没頭していくかに見えた。
ところが余の中は複雑である。この先10年間も熊楠をわずらわせることになる一つの通達が、時の政府から出されたのであった。「神社合祀令」である。
神社を取り巻く自然林は、何千年、何百年と人の手が入っていない生物の宝庫でる。そして、神社林こそが、熊楠の粘菌の採集地だった。研究領域を荒らされ、熊楠は怒った。
和歌山県内3700社から600社に激減した。合祀の嵐であった。1909年、熊楠は地元紙「牟婁新報」に意見寄稿し、反対運動に取り組むようになった。
地元国会議員に資料を送り、参議院で質問がなされた。1911年、柳田国男に協力を要請る。のち「南方2書」として反響を呼んだ。
1918年貴族院神社合祀廃止が議決され、合祀は収束に向かった。だがこの2年間に7万社の自然林が姿を消した。熊楠が反対した理由は研究の領域を奪われた以上の怒りであった。
子供が生まれると詣で、神社を中心に生業を営み、人々は祭りを心待ちにしていた。地域の歴史を記憶する場所であった。その神社をつぶすことは人々の融和を妨げ、庶民の慰安を奪い、人情を薄くし治安を悪化させ、美しい天然風景を奪う。熊楠は、1郷1村衰微させ、1国を衰退させていくと警告し続けたのである。
当時、熊楠はエコロジーという言葉を使っている。
「ところでエコロジーと申し、この草木の相互関係を研究する特殊専門の学問さえ、いできたりおることに御座候。」
熊楠は環境問題のパイオニアでもあった。
1906年、西園寺公望内閣の原敬内相のもとで出された通達事項。厳格に実行はされなかったが、平田東助内相の頃には激しさを増した。趣旨は、由緒や財産もなく、神職不在で祭祀が行われていない神社を由緒ある神社に統合し,敬神の念を高めるようにという内容である。
全国の神社は、1871年、太政官布告で、官社、府県社郷社、村社、無格社に格付けされていたが、合祀の対象となったのは小さな村社や無格社であった。
合祀に応じない神社は、必ず神職をおき、村社は年120円以上、無格社は年60円以上の報酬を支給のこと。また、基本財産積立法を設け、尊社は500円以上、無格社は200円以上の現金を有し、貯蓄させるものとする。法制化された。合祀は地方官吏の裁量にまかされ、全国でも三重県と和歌山県が特に厳しく実施された。
神社の故事来歴を無視した手あたり次第ともいえる合祀であった。合祀に反対する氏子たちが500円積めば、1000円、1000円を積めば2000円へと引き上げ強引に合祀を進めた。
伐採した木材が金儲けの対象になり、巨樹木の多い神社は逆に狙われ、神職と官吏とが癒着して私腹を肥やすという悪弊が生まれたのである。
熊楠は、3年に及ぶ、那智勝浦での粘菌調査を終え、田辺に腰を落ち着けた。中学時代の友人喜多幅武三郎達がいたからである。今回は、父の友人多屋家で借家住まいを始めた。
しばらくして、熊楠にも身を固める時がやってきた。
統計神社宮司の四女、田村松枝との結婚である。1906年、暑い盛りの結婚式であった。
長男熊弥が誕生すると、熊楠も落ち着きを見せ、田辺の町で研究に没頭していくかに見えた。
ところが余の中は複雑である。この先10年間も熊楠をわずらわせることになる一つの通達が、時の政府から出されたのであった。「神社合祀令」である。
神社を取り巻く自然林は、何千年、何百年と人の手が入っていない生物の宝庫でる。そして、神社林こそが、熊楠の粘菌の採集地だった。研究領域を荒らされ、熊楠は怒った。
和歌山県内3700社から600社に激減した。合祀の嵐であった。1909年、熊楠は地元紙「牟婁新報」に意見寄稿し、反対運動に取り組むようになった。
地元国会議員に資料を送り、参議院で質問がなされた。1911年、柳田国男に協力を要請る。のち「南方2書」として反響を呼んだ。
1918年貴族院神社合祀廃止が議決され、合祀は収束に向かった。だがこの2年間に7万社の自然林が姿を消した。熊楠が反対した理由は研究の領域を奪われた以上の怒りであった。
子供が生まれると詣で、神社を中心に生業を営み、人々は祭りを心待ちにしていた。地域の歴史を記憶する場所であった。その神社をつぶすことは人々の融和を妨げ、庶民の慰安を奪い、人情を薄くし治安を悪化させ、美しい天然風景を奪う。熊楠は、1郷1村衰微させ、1国を衰退させていくと警告し続けたのである。
当時、熊楠はエコロジーという言葉を使っている。
「ところでエコロジーと申し、この草木の相互関係を研究する特殊専門の学問さえ、いできたりおることに御座候。」
熊楠は環境問題のパイオニアでもあった。