明治25年、25歳で渡英。のち父の死を知る。
明治26年、科学学誌「ネーチャー」に論文
『東洋の星座」が掲載される。
明治27年、「拇印考」を「ネーチャー」に寄港。
明治28年、大英博物館図書館閲覧室の利用
許可を得て、「ロンドン抜書』を作成。
明治29年、母の死を知る。
日本を出て、6年がたとうとしていた。
「よーし、やっちゃるぞー。」意気揚々と
ロンドンにのりこんだ。が、
悲報が待っていた。父の死であった。
フロリダでロンドン行きを準備していたころ、
すでに他界していたのであった。
意気消沈していた熊楠だが、思わね所から光
が差してきた。
英国皇太子の結婚の行列を見物していた場で、
美津田という足芸師と知り合い、家に遊びに
行くと、英語を流暢にしゃべる片岡プリンス
という男がいた。
彼の紹介で、博物館古物学部長A.W
フランクに面会する。校正刷りの「東洋の
星座」の手直しをしてもらい、東洋の古美
術について熊楠から教えを請うたりと、
親交を交わした。その後、博物館への出入
りが許可され、円形閲覧所への入室も許可
された。
『熊楠がいたD列の席が愛用していた机で
あった。』そのD列は科学誌「ネーチャー」
があった棚に一番近かった座席である。
熊楠が閲覧室へ入ったころの日記は凄まじい。
「ゲスネルのごとく、なるべし」「学問と
決死すべし」連日の閲覧通いが記されている。
『ロンドン抜書』という抜き書きノートの
作成であった。
世界各国の旅行記や博物学、人類学、民俗学、
性愛学など500冊の文献からまとめた52
冊のノートである。
英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、
ラテン語、ギリシャ語など数ヶ国語で記され、
図まで詳細に記されていた。
このロンドン抜書の作成は熊楠の博識に磨き
をかけ、熊楠の学問は凄みを増していく。
世界各地の比較民俗学に関する熊楠の論文が
掲載されつづけた。
「日本人ミナカタ」はロンドンの学会で高ま
っていた。「百科事典に足が生えて動き出
した男」などと呼ばれた男の座右には
いつも『ロンドン抜書』があった。