演劇人 RAKUYU

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南方熊楠Ⅷ

2017年01月01日 | 日記

1897年30歳 孫文と会う。
         孫文カナダ経由で日本へ。
1898年31歳 博物館で女性を注意し、博物館を追われる。
1899年32歳 「ネーチャー」30周年記念号に特別寄稿家
         として名前を記される。
1900年33歳 熊楠、帰国の途に。
1901年34歳 英ビクトリア女王死去。
         孫文、和歌山の熊楠を訪ねる。
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 8年間に及んだ熊楠のロンドン時代。貴重な1ページが
孫文との出会いであった。
1897年3月、二人は大英博物館の東洋図書部長R.ダクラス
の部屋で初めて顔をあわせた。
1896年秋、アメリカから渡英してきた孫文は、前年、中国
広州での武装蜂起に失敗し、海外に逃れていたが、渡英後、ほど
なく駐英清国公使館に拘禁されてしまう。本国へ送還されれば、
命を失うことになるのはほぼ確実だったが、清国公使館の使用人
がロンドン在住の孫文の恩師カントリー牧師に知らせたことから
解決にむかった。政府や新部員に知らされたことで公になり、
孫文は監禁10日あまりで釈放された。
孫文はその後、大英博物館にたびたび訪れ、ダグラスが熊楠を
引き合わせたのだった。初対面の時、孫文は熊楠に問いかけて
いる。「ミナカタ、君の一生の所期は?」
「できることなら、我々東洋人は一度、西洋人をことごとく
国境外へ追放したいものだ。」と答えると「、、、」英国に
助けられた孫文としてはダグラスの面前でうなずくこともでき
ない。さすがの孫文も返事に窮してしまった。
であって、3日後には「午後6時孫文とともに、、、食す。
それよりハイドパークにて話し、バスに乗り、その宅に行き、
10時まで話し帰る。」それから孫文がロンドンを離れるまで
約3か月館、毎週のように顔を合わせた。
孫文は別れ際に自筆でこう書き残した。「海外逢知音」
知音とは「心の底から理解しあえる友」を意味する言葉である。
何が二人をそこまでひきつけあったのか?
無類の酒好きであった熊楠に対し、孫文は酒を飲まない。
方や学問一筋で、一方は革命家、一見対照的に見える二人だが
共通項もあった。
ダーウィンの進化論を愛読していたそんぶんは医者であり、
理数的知識を身に着けている。熊楠の博識に驚きながらも、
言葉の意味を理解しただろう。
「革命は99回失敗しても、最後に成功すればいい。」
と語った孫文の革命への情熱と覚悟は熊楠を吸い寄せるのに
十分なものであったに違いない。
二人はこんな約束もしていた。「ミナカタ、革命が成功したら、
わたしのふるさと広州にある羅浮山を天下の植物園にしよう。」
海外生活10年、学位も取らず、独学を続ける熊楠と
武装蜂起に失敗してひとり海外ですごす孫文。
夢に向かう情熱と希望を失わない明るさが二人を強く結び続けて
いたのだろう。孫文と熊楠の別れは1897年6月30日だった。
熊楠は孫文の家を訪ねて、別れを告げた。
大英博物館のダグラス東洋図書部長に、孫文の言葉を伝えたのち、
その足で、ハイドパークにやってきた。演説者たちは全く違う
テーマで声を張り上げていた。議論はつかみかからんばかりに
白熱していた。乱闘にまでなった演説を体験し、下宿に戻ると
日付が変わっていたという。
孫文を見送るのはつらい。だから、ハイドパークの喧騒の中に
身を置いたのではなかろうか。熊楠はこの日を境に
スピーカーズコーナーに頻繁に行くようになった。
和歌山で熊楠と再会したのち、孫文は熊楠に手紙を送っている。
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君が欧米に遊学すること20年ならんとし,,,
その哲学理学の情ふかなるは、西洋諸国の専門名家といえども
常に驚倒をなす、、、君は明利にこころなく、志を額に苦しめ、
独立し、ひとり行くこと10余年1日の如し、
(1925年、「革命はいまだ成功せず。」言葉を残し北京で客死す。)