1892年渡英 (25歳)
1893年英科学誌ネイチャーに論文を投稿、掲載される。
1894年日清戦争(27歳)
1895年大英博物館図書館閲覧室の利用許可を得る。
「ロンドン抜書」作成。
1896年(29歳)母、すみ死去。
熊楠30歳。大英博物館で猛烈な独学を続けていた熊楠だった。が、それもやがて終わりを迎える。閲覧室への入室許可を得て、3年目の1897年11月。熊楠は白人男性を激しく殴った。理由があった。「愛人は何人いる。」「日本人は猫を食べるのか。」そんな言動を続けていた英国人青年に我慢を重ねていた熊楠の怒りが爆発したのである。 いったんは博物館に戻ることを許されたが、翌年、女性を大声で注意したことで紛糾し、ついに博物館を追放されてしまう。故郷からの送金は途絶え、14年に及んだ海外での生活を終えて、帰国するのは1900年9月、33歳の秋であった。
学半ばで、英国を去った熊楠だが、ロンドンで得た数々の友情は生涯の財産となった。そのうちの一人に、ロンドン大学事務総長、フレデリック・ディキンズがいる。ディキンズは英国海軍の軍医として幕末の日本に滞在、英国公使のもとで働いた経歴を持つ。「百人一首」を英訳するなど、日本への造詣が深い。2人は1896年にディキンズから手紙をもらったことで知り合い、2年後、初めて顔を合わせた。
書簡「履歴書」にこう書いてある。『この人、小生がたびたび「ネーチャー」に投稿して東洋のために気を吐くを奇なりとし、一日小生をその官房に招き、ますます小生に心酔…』だがその前にひと悶着あった。ロンドン大学の事務総長室、ディキンズが自身の英訳「竹取物語」を熊楠に見せた。熊楠は「貴人たちがかぐや姫と交互に交際しようとした。」とある部分を読んで、ひっかかった。「これはいかん。悪く読めば、かぐや姫が男たちと毎晩寝たように誤解され、日本人の倫理観が疑われる。書き直してくれ。」苦心の訳を批判され、ディキンズは激怒した。熊楠を追い返すと、すぐに手紙を送り返してきた。「近頃の日本人、無礼なり。老人への礼の仕方も知らんか!」ここで引き下がる熊楠ではない。手紙を読み終えると、その足でディキンズの部屋へ押しかけた。「日本人の礼は、国の不面目をねつ造する外国人の老人のためにあるのではない。ほかの日本人は外国人に腰を曲げるのが上手かもしらんが、わしはちがう。」ディキンズも立派だった。 熊楠を認め、これを機に、いっきに親交を深めるのである。金銭面で援助し、殴打事件でも博物館への復帰のための骨を折った。二人の友情は生涯続き、のちにディキンズは結婚祝いに床掘熊楠の妻、松枝にダイヤの指輪を送っている。
のちに、デイキンズの孫がそっと熊楠のことを述べている。「祖父は短気で一番印象にのこっているよ。気が強かった祖父だから、ミナカタとぶつかったのでしょう。熊楠は祖父をすごく困らせた人・・・」
ロンドンの熊楠はどんなところに住んでいたのでしょう。8年間で4度住まいを変えている。1893年から約5年間。一番長く住んだ下宿の場所は市街地西部ケンジントン地区プライスフィールド・ストリート15という番地の3階建ての家があった。熊楠の言葉を借りれば、「馬部屋の2階のような、部屋に住んでいた。」という。かつて、その部屋を訪ねた友人の新聞記者は「大阪毎日新聞」にこんな記事を寄稿している。「その汚いことといったら、他に比べるものがないほどである。へこんだ寝台に破れたイス、便器のそばには食器が陣取り・・・感心であったのは、書籍と植物の標本とはほとんど一室をうずめていた。」
晩年、熊楠は『もう一度、ロンドンで勉強したい。』と語っていたという。