Drマサ非公認ブログ

チャーハンの素と資本論

 大阪市立大学の斎藤幸平さんを中心にマルクス『資本論』の再解釈というか、新資料をもとにした真実のマルクスを描き出そうという動きが活発のようです。特にコモンという考えの大切さを知らしめてくれるのが、新自由主義や環境破壊を乗り越えた新しい生き方を導くようで、賛成です。

 もともと脱成長論とか宇沢弘文先生の社会的共通資本などが先鞭であったとも言えると思いますが、社会の矛盾があらわになって、タイムリーであるかとも思います。

 色々僕なりの理解はあるのですが、ちょっとだけ。例えば、商品で「チャーハンの素」みたいな便利は商品はあんまり必要だとは思いません。チャーハンの味ぐらい、自分で工夫して、自分なりの味にすればいいと思うからです。そこで「自分なり」という自律性が後退してしまうような気がするのです。

 昔は味噌も醤油も自分の家で作っていたわけですけど、味噌や醤油まで自家製でなければならないと言う気は全くありませんが、どうして目の前に出てくるチャーハンの味まで企業が担う必要があるのか、と思っています。味の画一化などとも言う気もないのですが。永谷園さん、ごめんなさい。

 僕たちの前にモノが現れる時、モノは商品として現れます。この「モノが商品」という姿になってしまうこと、これが資本主義です。資本主義が行うことは、モノをなんでも商品とすることです。ですから、永谷園に恨みは当然ありませんし、しかしながら、チャーハンの味を「チャーハンの素」という商品にするという資本主義らしい活動だと思っています。

 そして、チャーハンを作り食べるという日常的な行為の中に、当然のように企業の商品が入り込んでいて、それなしには生きていけなくなるし、その商品を前提として、類似商品の良し悪しを選択するのが消費者という存在の有り様を規定します。まあ僕は「チャーハンの素」を使っていませんけど、当然商品に依存して生きています。

 もちろん「チャーハンの素」だけではなく、衣食住全般に関わるモノは全てそういう商品としての姿になっています。だからお金が必要という感覚が絶対化されWorshipされるのでしょう。

 そこに歯止めをかけるのが、コモンでしょう。

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