@辺見庸『月』角川書店、2018年
色々考えさせられる本ではあったが、自分の経験というかかつて考えたことと重ねて短めに取り上げてみる。
あの津久井やまゆり園で起きた相模原事件を題材にした小説。辺見さんがいうところ、世界史的な大事件であり、近代が作り上げてきた人権、反差別、寛容といった理念が破綻していることを示した事件であるという。僕はそこまで断言出来ないが、真摯に考えなければならないことだと思う。
『月』の登場人物さとくんが、あの19人の障害者施設入所者を殺した犯人のモデルである。彼の思想や行動については、いつか触れてみたい。
登場人物のひとりにきーちゃんがいる。重度の障害者で全く動くこともない、言葉を発することもない、顔を動かすこともできない、そういう存在である。だから、彼は役に立たない存在であるとされる。
ただ思考は自由である。そういう存在なのである。
僕たちは役に立たない人間は存在理由がないと思うことがある。職場で仕事ができない人間をみれば、心の中で軽蔑し、そのような思いの欠片ぐらいはもつ。人間にはそういうところがある。さとくんはそういう思いを強く抱くのだから、僕たちと通底した存在なのかもしれない。
5年ほど前だったと思う。介護福祉の専門学校で聞いた話である。
生徒が福祉施設に実習に行った時に、非常に嫌な思いをしたというのである。オムツを取り替えるときは、当たり前だけれど、人前ではやらない。ところが意識のない老人のオムツを替えるとき、そこの入所者が見えるところで行ったというのだ。その時のスタッフは「どうせ、わからないんだから」と言っていたという。
実習生はそれを見て、あまりに酷いと思い、抗議したのだが、他のスタッフたちも「だいじょうぶ」「問題ないよ」との反応だったという。
この話を聞いた時、当然実習生に共感した。そこで気づいたのは、人間の尊厳である。つまり、その人物に意識があるかいなかという個人の意識の状態に還元できないところで、人間の尊厳は存在するのではないかと。だから、その意識のない入所者に対して、人前でオムツを取り替えることに憤りを覚えたのだと。
ここにいたスタッフは日常業務をこなしている中で、すり減って、入所者の尊厳を損なうことに気づきもしない。ここにはきーちゃんとさとくんとの同型の間柄を観察できる。
さとくんは相模原事件の犯人のモデルである。施設のスタッフはさとくんほどの狂気を持たないとはいえ、通底する意識を抱いているではないか。だから、僕たちもまたさとくんと成りうるかもしれないのだと思う。
ただ「信じられない」「ありえない」と言って、かの犯人を単なる異常として処理するだけでいいのだろうか、そんな事を考えた。確かに殺人に走るには距離はある。しかしながら、この距離は長いのだろうか、短いのだろうか?