世間は現代でも生きている。
日本人を総体的に決定づけるのが世間である。
バイトテロ論をこのブログで書いている時、じつは阿部謹也や山本七平なんかの世間論を思い出してもいた。そこで、もう一度バイトテロ論を少しばかり加えていくことにする。
世間の定義というか位置付けは一定しているわけではない。家制度における家の外にあるのが世間であるという見方もある。この見方では、家の中は共同体であるから、僕たちのような現代人からすれば、面倒なしがらみがあるにせよ、相互扶助を約束された安心空間である。
ここからはみ出したり、排除されれば、安心を確保できない。そこで「世間の荒波」という言い方が示す通り、世間は生き難い場所になる。この場合、家の外、あるいは共同体の外が世間である。
ただ相互扶助の空間自体を世間とする見方がある。こちらの方が先の阿部、山本のいう世間である。世間は贈与と互酬によって構成される。何か貰えば、何か返さなければならない、こういう関係に支配されている、あるいは当然のこととする文化である。
お中元やお歳暮、冠婚葬祭、最近ではバレンタインとホワイトデーのような、贈られれば、贈り返さなければならないという関係に巻き込まれることにある。
実際、いくら金に困っていても、誰かが亡くなれば、香典を出さなければならないと僕たち日本人は考える。それができなければ、僕たちは義理を欠くと思い、道徳として迫って来る問題になる。
加えて、世間では長幼の序が重要になる。誰が目上であるのか、先輩であるのかという関係性によって僕たちの行動が決定される。
その関係性の中で、自分の位置を理解し、その状況や立場でどのように振る舞うのかが決定される。これは自ずとそうなっているかのようになっている。これ自体が日本の世間という力である。
そうすると、自分がどのような行動を取るのかは世間という力学に従って、自ずと決定される。ゆえに、日本には個人individualは存在しないと言われるわけだ。
このような世間論からすると、関係性が確定しづらい場合、日本人はどのような行動をしていいのか困ってしまう。そこで、実際に会って話をするような場合であれば、年齢や出身地や学歴などの長幼の序を観察し、行動しやすくしようとする。
ラフスケッチに過ぎないが、世間はこのような力学を有しているわけだ。
そこでバイトテロの問題にこの世間論を応用してみると、次のようなことが言えるのではないだろうか。
まずSNSに面白い動画を投稿したいという欲望が若者たちを支配していることを前提として、動画撮影の役割が自然と決まってしまう。
つまり、彼らはバイト先という集団性を世間としている。そのため、誰が映像を撮影するのか、悪ふざけをするのかが自ずと決まってくる。いわゆるキャラを演じるという面もあるだろう。
その上で、あくまでバイト先の仲間同士が世間であるので、その外部に対してどのような行動を取るべきかが決定しづらい。というのは、そのような行動を取るときの世間はバイト仲間にあるので、その外部は世間としての位置づけを仕損なってしまう。
いわゆるその外部であるものを僕たちは世間というのであるが、彼らは悪ふざけ動画を撮影し投稿するまで、この外部にある世間を意識していない。彼らにとって、世間ではないのである。
彼らにとって世間として意識しているのは仲間内だけだ。加えて、動画共有するであろう仲間だけである。そこは安心空間であるはずだった。自ずとこの範囲のみで行動が決まってしまう。
ゆえに、バッシングがなされた後で、その外部が世間として意識するものになっていき、問題行動であることにやっと気づくのではないだろうか。なぜ意識できなかったのかといえば、仲間内のみが世間であり、その外部は世間としては認識していなかったからである。
実際、僕たちは関係性を有することがない人々に対して、あたかも存在しないかのような振る舞いをしていると思う。世間に住まうという点で、バイトテロの若者と僕たちに違いなどないのであろう。彼らこそ、僕たちの鏡像である。