Drマサ非公認ブログ

1・4新日本プロレス東京ドームを見た

 CSで新日本プロレスの東京ドーム大会を見た。

 盛況だったようで、何よりである。来年は1・4、1・5と2日連続ドームでの開催とのことで、どのような企画になるのかはまだわからないが、すごいことである。

 他の団体とは違って、見事なスケジューリングで構成されている。逆にきっちりし過ぎていて、不満なぐらいだ(笑)。興行を近代的な商品とすると、見事にパッケージ化された商品だが、カーニバルとしてのプロレスという点でいうと、もっといい加減な方がいいとも思ったりした。

 色々裏事情があるようだけれど、棚橋がIWGPを取ったのは、彼のこれまでの功績からすれば、当然のことだ。膝の状態が悪いようだが、不思議なことにプロレスはそのような“傷”を負っていると、オーディエンスが感情移入を必然とすると思う。プロレスの表現的な可能性でもある。

 色々語ることはあるけれど、今回のプロレスを見て、記号論的プロレスの完成形のように思えた。記号論的プロレスといのは選手のキャラクター、得意技、必殺技が記号として際立ち、オーディエンスに共有されていることを前提に、それら記号を試合の展開に応じて組み合わせて作り上げるプロレスである。僕が勝手に名付けている。

 ロラン・バルトがプロレスの記号論的解釈を行っているけれど、プロレスにはこのような記号に反応する形で、オーディエンスの悦びを作り出すことに特化したジャンルである、どんなスポーツでも記号的な側面を持つわけだけれど、プロレスはその記号が“立っている”。

 しかしながら、それだけがプロレスではない。古いプロレスファンとしては、ホントに変わってしまったとの感慨というか寂しさもある。

 プロレスはロックアップからはじまる。振り返れば、19世紀にまで遡る。アントニオ猪木はそこにリアリティを組み込むため、安易にロックアップしないというスタイルを作り出した。

 しかしながら、プロレスは組み技であるから組み合うことからはじまる。どうしてか?力比べであるからだ。僕はロックアップして、きちんと力比べをする姿にレスリングを感じる。ところが、今回の大会の中でロックアップのシーンはほとんどなかった。ロックアップは記号として“立って”はいない。

 プロレスは変化する。しかしながら、力比べの遊びであることを失って欲しくないとも感じた。

 でも、十分楽しんだけれどね。

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