Drマサ非公認ブログ

コロナでうなされても、結構「考える」

 コロナは辛かった。何かする気もわかない。

 ところがだ。なんだか「考える」という営みは行われている。なんか「考え」ているのだ。もちろん辛いので、「考え」ていない時もあるのだろう。というか、意識がある限り、やっぱり「考え」ているのである。

 このコロナが治れば・・・。もしコロナが急変し、死んでしまったら・・・。ちょっとした仕事を抱えていたけど、大丈夫かな・・・。コロナになって見たら、思いの外、色々支えられていたけど、そんな支えられていることを自覚していなかった自分って・・・。

 ととにかく色々出て来ては、頭の中を巡っている。その色々は僕の「考え」なのだが、その色々を対象化して観察する「考え」も出てくる。後者が反省というか自己言及なんだろうけど、この2つの「考え」の間に、運動が生じ、「考え」の「考え」に導かれて行く。

 これが真の意味で「考え」なのだろうと、「考え」てしまう。そんな「考え」の運動に導かれているのだから、確かにコロナは身体的に辛いのだろうが、精神的にはコロナであろうがなかろうが、その実大差ない。確かに身体的辛苦は精神的辛苦と繋がっているが、それでも精神の運動を完全に無効化することはなかった。仮に無効化してしまったとしたら、それは死である。

 そんな経験であったが、「考える」はどうも事物・事象の本質を志向する。ところが、人々は本質を考えているつもりでも、実のところ現象を観ているだけである。事物・事象をそのまま観ることは出来ず、それらに付随する現象を観ているだけである。

 そんな端的な例をあえて挙げると、社会で何か問題が生じれば、その問題を語るマスコミやネットの言葉をあたかも自身の言葉として語って、自身はその問題(事物・事象)を理解したような気になる。そうすると、自分の「考え」ではないし、自分の言葉ではない。まさに世論の焼き直しである。

 だから世の中に流布する話を自分の「考え」として勘違いしてしまう。そして、そういう世の中で流れる言葉のエコノミー(経済)に適合して行くのだろう。当たり前だけれど、マスコミやネットの言葉はあくまで現象である。言うまでもない。

 「考える」という行為は、人にとって最も本質的な事実であるから、考えていないのに、「考え」ていると思う人が増えて行くことになる。

 続くかな。

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