東日本大震災から12年です。
当日僕は新宿にいました。なんだかビル群が揺らいでいました。それでもいつもある「地震かな?!」程度の受け止めと「いつもと違う」という感覚両方がありました。そうすると、ビルの中にいた人たちが整然としながらも外に出てきました。これでいつもと違うと思ったものです。
小1時間ぐらい経ったころ、大き目の喫茶店に入りました。そこにテレビが設置してあり、東北の地震の様子が流れていました。小1時間ぐらいはそこにいたのですが、そんな中津波の映像まで流れていました。恐ろしい映像だったと思います。
とはいえ記憶の操作により、後々見た映像を喫茶店滞在中に見た映像としていたのかもしれません。
僕は2つの思いを抱えていました。1つには多くの人々が思ったことであろう大地震という現実の恐ろしさです。しかしながらその反面、このような現実の中に生きていることであるから、当たり前のことであるとも。
人々の悲しみや苦しみを想像する自分と、自然が人間のためにあるわけではないという必然を確認してしまう自分。
さて、新宿から帰ろうとするにも交通機関は動いていません。当たり前です。仕方なく自宅の調布まで歩きます。そこで知り合いの若い子たちと偶然出くわします。随分怖がっているので、僕も一緒に歩くことになりました。そのため随分遠回りをすることになりました。
今でも覚えているのは、コンビニに入ったときのことです。弁当やサンドウィッチがなくなっていたことです。そして最後のサンドウィッチを争って手にしようとする光景です。また吉野家に行列ができていたことです。「さもしいな」と思いながら歩いてたい記憶が残っています。
日本人は心遣いができる民族です。そう僕のようなひねくれ者でも思っています。いいところです。でも、こういうときにこそ心遣いではないかと思うと、失われたのかなどと思ってしまう自分がいたのを思い出します。そういえば被災者や原発事故被害者は棄民のように扱われてしまいました。
マウントを取ったり、目立つことが良いとされたり、弱者を対象として自身は優位にあるとしてうちに秘める劣等感を誤魔化したり、そろそろ弊害もひどくなってきました。少しづつ「善く」なる兆しがあるのかともほんの少し思うところがあります。
あれから12年。干支が1周しました。多分干支というのは人間のもつ時間感覚の流れと変化を認識する仕掛けだと思います。僕も歳を取りましたが、日本も変わりました。
そろそろ心遣いが日本人の民族性として、こういうときに発揮されればなあと祈念します。
あと30分、14時46分でその時です。