先日北海道に帰った。弟の子供、つまりは僕の甥とも会いました。甥は高校三年生なので、親としては進路が気になるところ。そこで、僕にも相談というわけだ。
しかしながら、当の本人は、どうも関心薄という感じです。僕としては、「好きなようにすればいい」と伝え、そもそも将来を見据えるなどという、つまりは人生の目的など、見つかる人間の方が奇特でしかないからと伝えました。適当に応えたのではありません。本心からそう考えています。
それにしても、僕の甥からは意欲を感じませんでした。おそらく意欲を発達させてこなかったのではないかと、少しばかり心配になったものです。
食欲とか性欲ではなく、意欲です。自分で何かを行おうとする意志です。どんな人間にも、意欲の種子は蒔かれているはずですが、それが成長開花するためには、スイッチを入れてもらわなければならないでしょう。
その意味で能動的であるけれども、その発端は受動的です。しかしながら、ある物事を意欲するのは、その人物がある物事に反応する能力が組み込まれていることになるので、能動的であるとも受動的であるともいえない領域にあるとしかいえないかもしれません。人間の精神活動の端緒がなんなのかは、簡単にはわからないような気がします。
で、僕の場合、どのように意欲をもたらせられたか、少し振り返ってみます。父が買ってきたビクトル・ユゴー『ああ無情』が、そのいい例ではないかと思っています。
小学校3年生ぐらいではなかったか。そもそも父親が本を買ってくれるのが、実に楽しみだした。父は家を空ける事が多かったので、帰るたびにお土産を買ってきてくれました。だから父親からお土産を渡された時は、どんなに嬉しかったことか。
その中の1つが『ああ無情』であったわけです。父が帰ることを楽しみにして、お土産を楽しみにして、『ああ無情』を少し読むと、その次の展開を楽しみにして、学校に行っても、早く帰宅して、読みたいと思い、その本に食いついていたものです。読み終えると、それっきりになるのだけれど、もう一回読んで見たいと思う。そして読むわけです。読み返してみると、違う様が見えてきたりもするのです。それがたとえようもないほど楽しみになったのでした。
当時の僕がずいぶんと意欲している事が、わかると思います。これが大事なのではないかと思うのです。この時、僕は意欲を学習したのだと思います。意欲の種子を育てることに成功したのではないかと考えます。
僕は勤勉な人間ではありません。しかしながら、意欲を植え付けられ、そこそこ開花して、50歳半ばまで生きてきているような気もします。買いかぶりすぎかなあ。
甥は意欲を培う機会を見失ったのではないかと頭を過ぎります。目覚めようとして、まだ眠っているもの(つまり意欲の種子)が心の中にあるのだろうと思います。だから、そこに刺激を加えるのは、親であり、社会であるわけですが、このエッセイが的を得ているとしたら、僕の責任もあることになります。なんせ僕のめんこい(かわいい)甥なのですから。お小遣いをあげるだけの人間になってしまっては・・・
まだ十分に考えが至っていないのですが、ここは少しばかり考えたことを綴って見ました。