前回、甥から意欲を感じなかったという話をした。
意欲が培われると、知性の眼が開かれます。そこが欲求と違うところです。例えば、食欲は眼が開かれる必要はありません。当たり前です。生まれたての赤ちゃんは、母親のおっぱいに吸い付きます。欲求は開かれるのを待つ必要もなく、生物であれば、欲求を持ち、反応します。
ところが、心の中にはまだ眠っているものがあるわけです。それが意欲となって現象化してくるのですが、浅い眠りを揺り動かし、目覚めることで、力を持つわけです。小学校入学の頃からか、幅はありそうです。
意欲が何かに向かうと、いちいちこちらから指導したり、教育しなくても、ひとりでに実践をして行きます。大抵遊びからはじまるでしょう。ここで重要なのは、他人から教えられなくても、ひとりでに実践することです。これが「学ぶ」の本当の意味でしょう。誰かに教えられていることは、躾や教育です。
さて、そこで人間はどのような意欲を持つのかを考えて見ました。大別して、2つあるのではないかと思います。
1つは無明への意欲です。無明とは、人間の欲望に関わることです。名誉欲、金銭欲、権力欲などがそれに当てはまるのでしょうが、現生利益を求める力となって現れます。ですから、健康であっても、恋愛成就であっても、この意欲の一種ではないかと思います。
もう一方は、真善美への意欲です。こちらが純粋に知性における意欲でしょう。これは理想として現れると思います。人間はこれに感銘を受けます。そうすると、勝手に追い求めます。何か身に合った理想というものがあるはずです。
無明の意欲も、真善美の意欲も、世界を勝手に二分したものでしかないのですから、ある意欲はどちらなのかわからないということもあるでしょう。これに他者との共感、つまり情緒が育成されていれば、間違った意欲にはブレーキがかかるはずです。
さて、甥からは意欲があまり感じられませんでした。僕が何か理想を与えればいいのかとも逡巡しました。なかなか難しいと・・・・