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我的三国演義~第六巻『劉備敗走』

2008年07月16日 | 我的三国演義
我的三国演義~第六巻『劉備敗走』
この巻の主な出来事です。

196年(建安元年) 『曹操』、「献帝」を「洛陽」に迎え、「許」を都とし、
             「献帝」を「許」に移す。
             『劉備』、『呂布』に“徐州”を奪われ、『曹操』のもとへ。
198年(建安3年) 『曹操』、「下邳」で『呂布』を処刑する。
199年(建安4年) 『袁術』死亡。
200年(建安5年) 『曹操』軍により『劉備』敗走。『袁紹』を頼る。

 曹操孟徳(155年 - 220年)
196年「献帝」(後漢第14代皇帝)は17歳の時、『曹操』により「許」に迎えられました。
その年『呂布』は『劉備』から“徐州”を奪いました。
『劉備』は和睦した『呂布』から「小沛」を任されましたが、『張飛』が『呂布』の馬を盗む事件が起きました。
『劉備』は『呂布』の報復を恐れ、「許都」の『曹操』の下に逃れました。


 劉備玄徳(161年 - 223年)
『曹操』は「許」で『劉備』を「献帝」に拝謁させました。
「献帝」は『劉備』の素性を知らず、『劉備』に尋ねました。
『劉備』は「漢」の「景帝」の子「中山靖王・劉勝」の後裔にあたります。
すなわち皇室の一族…というわけです。
「献帝」は系譜を調べさせ、従者に読み上げさせました。
『劉備』はその読み上げられる祖先の名を聞きながら、諸国の乱で家門を失い、土民に落ちぶれていった両親…むしろを売って生計を立てていた自分を思い出し、涙しました。
「献帝」は『劉備』が一族だと知り、以後『劉備』を“劉皇叔”と呼び、慕うようになります。
そして『曹操』が『劉備』を警戒し始めるようになりました。

 張飛益徳(165年 - 221年)
三国史跡紹介・其之十八~張公祠(詳しくは2008年4月30日のブログを参照してね)
『劉備』『関羽』『張飛』が「献帝」に拝謁する際に駐屯したとされる地には『張公祠』があります。(入場料なし)
所在地は「河南省許昌市張藩鎮門道張村」です。

この「三姓柏」に『劉備』『関羽』『張飛』が馬を繋いでいたらしいです。
なぜ主君の『劉備』では無く『張飛』を祀る『張公祠』しか無いのか…
アクセスは「汽車東站」より201路バスに乗り「段庄」で下車します。
それから農道を「10~15分」直進します。
「張公祠に行きたい」と車掌にでも言っておけば、その農道の前で降ろしてくれるはずです。
到達難易度は「C」かな。
案内標識も何も無いから、バスの車掌に聞いたり…と中国語を使わなきゃならんから。

三国史跡紹介・其之十九~毓秀台(詳しくは2008年4月30日のブログを参照してね)
ついでに「汽車東站」より201路バスに乗り「古城」で下車する(段庄よりも更に先)と『漢魏許都故城遺址』『毓秀台』があります。(入場料なし)
ここも「河南省許昌市張藩鎮」です。

『毓秀台』は『曹操』が「献帝」の為に造った祭壇です。
「献帝」は毎年秋分に文武百官を引き連れて天に祈りを捧げたと言います。
到達難易度は「D」ですね。
ちゃんと201路バスにさえ乗れれば、道路沿いに『漢魏許都故城遺址』の門が見えるしね。
そして、その先に『毓秀台』も見えますよ。
  …以上

 関羽雲長(生年不詳 - 219年)
ある時、『曹操』は「献帝」らを誘い、「許田」へ狩りに出ることになりました。
目の前に現れた大鹿を『曹操』は「献帝」の矢で射止めました。
「帝がしとめられた!」と勘違いした人々が万歳を叫ぶや、『曹操』は「献帝」の前に立ちはだかり、「その鹿を射たのは余であるぞ!」と言いました。
帝の面目は丸つぶれであり、「献帝」は宮殿に戻って悔し涙を流したと言います。
その時の『曹操』の振る舞いに腹を立てた『関羽』が、刀の柄に手を掛けたところを『劉備』に隠されています。

三国史跡紹介・其之二十~射鹿台(詳しくは2008年5月1日のブログを参照してね)
その狩りをした「許田」が現「許昌県陳曹郷射鹿台村」です。

今では、ちょっとした高台に、この『射鹿台』と彫られた碑があるのみ。
アクセスは「客運東站」から202路バスの「尚庄」行きに乗り「射鹿台」で下車します。
到達難易度は「D」かな。
『射鹿台』はこの202路バス道沿いなので、ちゃんとバスにさえ乗れれば行けます。
     …以上

199年「献帝」が『曹操』の本拠地「許」に遷って3年が経ち、帝は20歳になっていました。
「献帝」の周囲には常に『曹操』の目が光っており、一挙手一投足、一語一語が監視されていました…。
「献帝」は189年に『董卓』によって、10歳で「後漢」の第14代皇帝になりました。
190年には「洛陽」から「長安」へ移され、192年『董卓』が『呂布』に暗殺されると、195年には「李カク」「郭」による乱に巻き込まれました。
196年「洛陽」に逃れた「献帝」を『曹操』が救った形で、廃墟だった「洛陽」から「許」に移されました。
しかし「許」では『曹操』の専横…。
「献帝」の心は沈んでいました。
このままでは政が『曹操』1人によってなされ、いずれは「漢」王朝が滅んでしまうだろう…と。
「献帝」はいつしか『曹操』に対して憎悪を抱くようになっていきました。

ついに帝は指を食いちぎり、その血で『曹操』誅殺の密詔を書いて帯の間に縫いつけました。
密詔を託せる人間は義理の叔父にも当たり、日ごろ「献帝」が“国舅”と呼び信頼している“車騎将軍”の「董承(生年不詳 - 200年)」をおいてほかにありません。
「献帝」は「董承」を呼び、これまでの働きを感謝して、帯と上衣を下賜します。
帯に密詔が縫い込まれている事など、「董承」は知りもしませんでした。
が、あるとき「董承」は拝領した帯の上に灯心を落としてしまいます。
その帯の焼け焦げから出てきたのは、血でしたためられた詔でした。
「董承」は“工部侍郎”の「王子服」、“長水校尉”の「種輯」、“昭信将軍”の「呉子蘭」、“議郎”の「呉碩」など信頼できる者を同志に加えました。
そして『劉備』もこの計画に名を連ね、“三国演義”では“西涼”の「馬騰(馬超の父)」も加わったことになっています。

 呂布奉先(生年不詳 - 198年)
198年の『呂布』討伐後、『劉備』は『曹操』のところに客将としてとどまっていました。
『曹操』は『劉備』を“豫州刺史”に加えて“左将軍”とし、同じ輿で外出し隣り合って座る、といった下にも置かぬ扱いぶりでした。
『劉備』は「董承」らの計画に名を連ねてからは『曹操』に疑われないように言動に注意し、『曹操』の目をはぐらかすため庭に野菜を植えて育てたエピソードもあるほどでした。
野心が無いことを『曹操』に思わせるためです。
あるとき『曹操』は『劉備』を呼び、酒を酌み交わし、当世の英雄について論じ合いました。

(写真は許昌「灞陵橋公園」内の「青梅亭」にある“煮酒論英雄”像です)
『曹操』は『劉備』に問います。
「当世、英雄と呼べる者は誰か?」と。
『劉備』が「袁紹はどうでしょうか?」と答えると、『曹操』は「袁紹は肝がすわっておらず、策謀を好むが決断力がない。大事にあっては我が身を惜しむ」と。
「それならば袁術は?」と答えると、「あんな者は墓場の朽ち骨だ」と。
「では孫策はどうでしょう?」と言うと、「孫策は父、孫堅の名声と威光のおかげだ」と。
次々に『劉備』が名を挙げますが、「劉表は評判は高いが実質が伴わない」「劉璋は漢王室の一族だが、番犬にすぎない」「張魯、張繍、韓遂などは吹けば飛ぶような小者だ」と…。
『劉備』が「それなら他に誰が英雄と呼べましょうか?」と尋ねました。
すると『曹操』は「今英雄といえば貴殿と自分だけだ」と言ったとき、『劉備』はギョッとして箸を落としてしまいました。
『曹操』はそれほど自分を有力視している…。
ちょうどその時、雷が轟いたので雷に怯えたフリをしてごまかしました。
『曹操』は「英雄も雷を怖がるのか?」と言い、上機嫌で笑いました。

199年「寿春」の『袁術』が『袁紹』を頼って北上を始めました。
197年『袁術』は皇帝を名乗ってからも奢侈はますます酷くなり、色とりどりの薄布をまとった数百人の女たちを後宮に囲って、余るほどの上質の食料を口にしていました。
皇帝が住むにふさわしい宮殿や町を造ろうと莫大な費用を掛け続け、そのため民には重税が掛けられました。
かつて『袁術』の下に身を寄せていた『孫策』も、これを聞いてついに絶縁状を叩きつけました。
しかし、ニセ皇帝であるため、『曹操』に攻撃され大打撃を受けていました。
そして199年に『劉備』は『曹操』に『袁術』討伐を願い出て“徐州”に入ります。
『曹操』は『劉備』に5万の兵を与えました。
これは『袁術』と『袁紹』の合体を阻止する名目でしたが、『劉備』としては『曹操』の目が届かない所に出て行きたい、という理由もあったのです。

『袁術』らの一行は「寿春(淮南)」を捨て、河北に移動を始めました。
皇帝の御物財宝、宮内の調度品だけで数百両の車を要し、後宮の女人や一族を乗せるロバだけでも延々数里に渡り、さらに兵士、その家族と従っていくため、とてつもない大行列になりました。
その報せが“徐州”に入ると、『劉備』軍はすぐさま出陣しました。
『袁術』一行は日中は『劉備』軍、夜は財宝目当ての山賊に襲撃され『袁術』一行は散り散りバラバラとなっていきました。
『袁術』が「江亭」に辿り着いたとき、従っている者は一族の者や女子供でした。
しかも季節は最も暑い6月…水や食料が底をつき餓死者が続出しました。
餓死寸前の『袁術』は民家を見つけて水を所望しますが、民は「水は無いが、私の血ならありますが」と言いました。
木の寝台に腰を下ろし、大きな溜息をつくと「袁術ともあろうものが、こんな様になるとは…」と大声で叫び台にうつぶせになると、その場に1斗あまりの血を吐いて息絶えました。

三国史跡紹介・其之二十一~袁術墓(未到達)
「安徽省長豊県淮南市孤堆回族郷蔡圩村」には「袁術衣冠塚」とされる「厳氏孤堆」があります。
元々は「袁氏孤堆」でしたが、口述変化で「厳氏孤堆」になったとされます。
     …以上

その後『劉備』は“許都”に兵を返さず、“徐州刺史”の「車冑」を襲い“徐州”を奪い取り、『関羽』に「下邳」の城を任せると、「小沛」の城に入りました。
“三国演義”では、「車冑」は『曹操』から『劉備』討伐の命を受けていましたが、「車冑」はそれを「陳登」に相談したため、「陳登」から『関羽』らに話が伝わってしまいました。
「陳登」は『呂布』討伐でも『劉備』に協力していましたが、これにより「車冑」は『関羽』『張飛』らの急襲を受けて殺されています。
これを聞いた『曹操』は激怒し、すぐさま「劉岱」と「王忠義」を派遣して『劉備』を攻めますが、『劉備』軍はこれを破りました。
そして『曹操』暗殺計画も『曹操』に発覚してしまい、「董承」「王子服」「種輯」「呉子蘭」「呉碩」及び一族も皆殺しにされました。

三国史跡紹介・其之二十二~董貴妃墓(詳しくは2008年5月1日のブログを参照してね)
「董承」の娘であり「献帝」の妻であった「董貴妃」の墓があるのは「河南省許昌市魏都区八一路東段」です。

「董妃苑」という公園内にありますが、入園は無料です。
到達難易度は「D」です。(市内地図に載ってるから簡単に行けます)
    …以上

 袁紹本初(生年不詳 - 202年)
そして『曹操』がみずから軍を率いて『劉備』討伐へ動きました。
『曹操』陣営では“徐州”の『劉備』を討ちに行けば『袁紹』がつけこむのではないか?という意見も出ましたが、『曹操』は「袁紹は機を見るに敏ではないから事態を看過するだろう」と読み、“徐州”に向かったのです。
やはり『曹操』の読み通り『袁紹』が手を下すことはありませんでした。
“三国演義”では、『袁紹』の末子が病気になったため動かなかった、としています。
『曹操』は対『袁紹』のために「官渡」にいると思っていた『劉備』に、『曹操』率いる大軍が“徐州”に向かっているとの報せが届きました。
今の『劉備』軍が『曹操』に敵うわけがありません。
“演義”では「陳登」が『袁紹』に力を借りるよう『劉備』に提案します。
今『曹操』と互角に渡り合えるのは『袁紹』だけですが、先ほど『劉備』は『袁紹』の弟である『袁術』を討伐したばかりです。
そこで「陳登」は「鄭玄」という人物に『袁紹』への仲介を頼む手紙を書きました。
「鄭玄(127 - 200)」は「後漢」時代の学者です。
かつて『袁紹』と「鄭玄」は宮中で同じ役目を務めており、『袁紹』は「鄭玄」を尊敬していました。

三国史跡紹介・其之二十三~鄭玄廟・鄭玄墓(詳しくは2007年9月23日のブログを参照してね)
「鄭玄廟・鄭玄墓」があるのは「山東省濰坊市高密市双羊鎮后店村西(鄭公村)」です。

「双羊鎮」までは「高密市」から「バス」で行けますが…この「鄭玄廟・鄭玄墓」まで行くのは一苦労ですよ…
ド田舎でタクシーや輪タクも掴まらないし…
入場料は2元、到達難易度は「A」です。
    …以上

「小沛」にいた『劉備』と『張飛』は敗走し、『関羽』が守っていた「下邳」も『曹操』軍に追い詰められます。
“正史”では『劉備』は『袁紹』の長男で“青州刺史”を務めていた「袁譚」を頼り、“青州”に落ち延びます。
「袁譚」はかつて『劉備』に推挙されて茂才になったことから、『劉備』には好意を抱いていました。
『劉備』はその後『袁紹』に迎えられ、“冀州”の「鄴」に落ち着きました。

「第7巻」では、“冀州”の『袁紹』の下にいる『劉備』、「下邳」で『曹操』に降伏し「許都」に行った『関羽』、行方不明の『張飛』…バラバラになった三兄弟はどうなったのか?
お楽しみに~

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