我的三国演義~第九巻『決戦!長坂坡』
この巻の主な出来事です。
207年(建安12年) 『劉備』、「三顧の礼」で『諸葛亮』を迎える。
208年(建安13年) 『曹操』、「荊州」を攻め、「劉」が降伏。
『諸葛亮』、『孫権』と会見し、同盟を結ぶ。
劉備玄徳(161年 - 223年)
さて“三顧の礼”で『諸葛亮』を得た『劉備』ですが、2人の親交が深まるにつれ、『関羽』や『張飛』が不満をぶつけます。
それに対し『劉備』は「私に諸葛亮が必要なのは、魚が水を必要とするのと同じようなものなのだ」と語り、なだめました。
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(四川省綿陽市「富楽山」にある『魚水君臣』像です)
諸葛亮孔明(181年 - 234年)
「三国志演義」では「博望坡の戦い」という『諸葛亮』のデビュー戦が描かれています。
まだ実力未知数の『諸葛亮』にベッタリの『劉備』に嫉妬する『関羽』と『張飛』でしたが…『曹操』が「新野」に「夏侯惇」「于禁」「李典」らを出陣させました。
『曹操』軍は10万、対する『劉備』軍はわずか1万でしたが、『諸葛亮』が諸将に授けた作戦は「新野」の東北にある「博望坡」に敵を誘い込むというものでした。
当初『諸葛亮』の指図などに従えるか!といった感じの『張飛』や『関羽』でしたが、作戦通りに『曹操』軍を打ち破り、以後『諸葛亮』の実力を認めることになったのでした。
三国史跡紹介・其之三十九~博望坡(未到達)
所在地は「河南省南陽市方城県博望鎮博望村」です。
周囲が畑のど田舎に「博望坡」の石碑が立っています。
地図で見ても、かなり辺鄙な場所な上に、石碑が1つあるのみ…
…以上
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『劉備』らが世話になっている「荊州」の“牧”「劉表」は高齢で健康がすぐれず、しかも今は『曹操』の脅威にもさらされていました。
「劉表」には2人の息子がいましたが、嫡男の「劉」は病気がちでした。
後妻(蔡氏)との間にできた「劉」は、母(蔡氏)や蔡氏の弟で「劉表」の家臣「蔡瑁」らが擁立を企んでいました。
そのため「劉」は『諸葛亮』に助言をもらい、後継争いから身を引き、空席だった“江夏太守”を志願し、「夏口」へと去りました。
この「夏口」は“太守”であった「黄祖」が、父「孫堅」の仇討ちに燃える『孫権』軍に敗れたため、“太守”の座が空いていたのです。
そんな「劉表」は病床に『劉備』を呼び寄せ、「荊州をさしあげたい」と申し出ましたが、『劉備』はこれを辞退したといいます。
そして208年8月、『劉表』が息を引き取りました。
曹操孟徳(155年 - 220年)
翌9月、『曹操』みずから兵を率いて「荊州」に攻めて来ました。
しかし、この情報は「樊城」に駐屯していた『劉備』らには一切知らされておらず、『劉備』が気付いたときには『曹操』軍は近くの「宛」まで迫っていました。
『劉備』らは急ぎ南を目指して逃走しました。
「劉」のいる「襄陽」に着いたとき、『劉備』は「劉」に会見を求めましたが、このとき「劉」は迫り来る『曹操』軍におそれをなして席を立つことすら出来なかったといいます。
『劉備』は、「蔡瑁」ら降伏派と反降伏派の争いを見かねて、更に南下して行きました。
このとき『諸葛亮』は「劉を討てば荊州を手に入れられます」と進言しましたが、『劉備』は「自分には忍びない」と言って却下したといいます。
その後「劉」は「襄陽」を無血開城し、あっさり『曹操』に降伏してしまいました。
これは「蔡瑁」らの主張を受け入れたのですが、後に「劉」は“青州刺史”に任ぜられるものの、「青州」に向かう途中「蔡氏(母)」と共に『曹操』軍に殺害されてしまうのでした…。
『劉備』を慕って多くの民間人も南下していました。
「当陽」に着いたころには10万余りの人々、数千台の荷物がつき従ったため、1日の行程は10里あまりにしかなりませんでした。
関羽雲長(生年不詳 - 219年)
『劉備』は『関羽』に数百艘の船を支度させて民間人の多くを船に乗せ、『関羽』とは「江陵」で落ち合うことにしました。
それでも船に収容しきれなかった民間人は多く、彼らは『劉備』と共に陸路を進みました。
ある人が『劉備』に「民間人は足手まといになります。ここはすみやかに江陵に向かわれては」と助言しましたが、『劉備』は「自分に身を寄せてくれているのだ。見捨てることができようか!」と反対しました。
そして…「襄陽」で「劉」を降伏させた『曹操』は、『劉備』を討つ絶好のチャンスとばかりに夜を日についで追撃…ついに「当陽」の「長坂」で『劉備』に追いつきました。
『諸葛亮』は「夏口」の「劉」に援軍を求めに行き、『張飛』、『趙雲』らも『劉備』とはぐれてしまいました。
趙雲子龍(生年不詳 - 229年)
この時『趙雲』は、『劉備』の妻子の警護をしていました。
しかし、『曹操』軍の攻撃の中はぐれた事に気付き、単騎戦場へと引き返して行きました。
これを見て「趙雲は曹操に寝返った」と言う者がいましたが、『劉備』は「趙雲は私を捨てて逃げたりしない!」と叱りつけました。
『趙雲』は、まず避難民の中に「甘夫人」を見つけ、救出しました。
その後『曹操』軍に捕らえられ護送される「麋竺」を救出、そして『曹操』の側近「夏侯恩」と出会い、討ち取ります。
それから「阿斗」を抱いた「麋夫人」を橋の下で見つけました。
しかし、足に傷を負った「麋夫人」は、足手まといになると言い『趙雲』の制止を振り切って古井戸に身を投げてしまいました。
その後『趙雲』は「阿斗」を胸に抱きながらも、50人以上の『曹操』軍の兵を倒したといいます。
三国史跡紹介・其之四十~長坂坡公園(詳しくは2008年2月4日のブログを参照してね)
所在地は「湖北省当陽市長坂坡」で、恐らく市内の中心部にこの「長坂坡公園」があります。
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入場料は無料で、公園内には「長坂坡の戦い」を再現した像が点在しています。
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『趙雲』ファンには堪えられない史跡の一つであることは間違いないでしょう。
到達難易度は「C」かな…当陽市内に出られれば容易に着けると思います。
三国史跡紹介・其之四十一~太子橋(詳しくは2008年2月4日のブログを参照してね)
同じく当陽市内で「長坂坡公園」から徒歩でも行くことができます。
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「阿斗」を抱いた「麋夫人」が身を潜めていたのがこの「太子橋」です。
到達難易度は「C」かな…ちょっと道に迷ってしまいましたが、事前に正確な場所を調査できていれば難しくはないでしょう。
三国史跡紹介・其之四十二~娘娘井(詳しくは2008年2月4日のブログを参照してね)
「太子橋」からさらに歩くと「娘娘井」に辿り着きます。
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『趙雲』に「阿斗」を託し、「麋夫人」が身を投げた井戸です。
ちょっと場所が分かりづらく、見つけるのに苦労したので到達難易度は「B」ってことに。
…以上
張飛益徳(165年 - 221年)
「阿斗」を抱きながら『曹操』軍の中を一騎で駆ける『趙雲』はようやく「長坂橋」に辿り着きました。
そこで殿を務めていた『張飛』があとを引き受け、『曹操』の大軍を待ち受けます。
三国史跡紹介・其之四十三~張翼徳横矛処(詳しくは2008年2月4日のブログを参照してね)
所在地は当陽市の外れの方かも知れません。
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殿を務めた『張飛』は「長坂橋」に仁王立ちし『曹操』軍を一喝
『曹操』軍はその雄たけびに身動きも取れず…そしてその豪傑が『張飛』だと知ると退散してしまいました。
ここは「当陽站」に出て輪タクで行きましたが…面倒なんで到達難易度「B」にしておきます。
…以上
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(「赤壁古戦場」にある長坂橋の『張飛』像です)
その後『張飛』は「長坂橋」を破壊し、『曹操』軍の追撃を阻んで『劉備』の下へ戻ります。
そして「漢津」で『関羽』と「劉」の軍勢1万と合流し、「江夏」に辿り着いたのでした。
「劉表」の息子「劉」が太守を務めていたのが現在の「武漢」です。
三国史跡紹介・其之四十四~武漢・亀山公園(詳しくは2008年2月11日のブログを参照してね)
所在地は湖北省武漢市で武漢長江大橋の「黄鶴楼」がある方の反対岸です。(漢陽区)
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到達難易度は「D」ですね…武漢は「漢口」「武昌」「漢陽」と3つの区があり、バスやタクシーも区を越えて行かない場合もあって面倒ではありますが公園だから到達困難ではありません。
…以上
孫権仲謀(182年 - 252年)
こうしたなか『孫権』は幕僚の1人「魯粛」を「劉表」の弔問に派遣しました。
魯粛子敬(172年 - 217年)
そこで「魯粛」は『劉備』と会い、『劉備』は『諸葛亮』を「呉」へ派遣しました。
「呉」には『曹操』からの書状が届いていました。
共に協力して『劉備』を討とうという内容でしたが、応じれば服従を意味し、応じなければ攻め込まれる…「呉」内部では開戦派と非開戦派に別れ論争が続いていました。
そこに「呉」と「魏」を戦わせて天下三分を実現させようと目論む『諸葛亮』が現れます。
『諸葛亮』は「呉」の重臣たちと舌戦を繰り広げ、ついに『孫権』と会見します。
『諸葛亮』は『孫権』に「勝ち目が無いと思うなら降伏すべき」と進言します。
「ならば、なぜ劉備は降伏せぬ?」という問いに「劉豫州は王室の後裔です、もし事が成就しなかったならそれは天命、なぜ曹操ごときに降伏などできましょう」と答えました。
一度は怒りで席を外した『孫権』でしたが再び『諸葛亮』と話し、『劉備』と同盟して「魏」と戦う決心をしたのでした。
しかし、非開戦派の重臣に諌められてしまい、水軍提督の「周瑜」に委ねることにします。
兄「孫策」は死に際に「国内の問題は張昭に、外からの混乱は周瑜に相談するように」と言い残していたのです。
周瑜公瑾(175年 - 210年)
『周瑜』は『孫権』の兄「孫策」の大親友で、「孫策」の妻は「大喬」、『周瑜』の妻は「小喬」という姉妹を娶っていたのです。
『諸葛亮』は『劉備』『孫権』同盟の鍵を握る『周瑜』とも面会をします。
降伏すれば戦火を免れるであろうが、君主『孫権』はどうなるのか…?
それに対して『諸葛亮』は「戦わず、降伏もせず曹操軍を引き上げさせる方法がある」と告げます。
それは「一艘の小船と2人の人間を贈り物とすればよい」ということでしたが、その2人とは「大喬」と「小喬」姉妹のことだったのです。
『曹操』は美人姉妹の噂を耳にし、それが手に入れば兵を引き上げるというのです。
それを聞いて激怒した『周瑜』は開戦を決意…「呉」は『劉備』と同盟し、『曹操』軍を迎え撃つこととなるのです。
-第十巻へ続く-
今回の「第九巻」は映画「レッドクリフ」の前編にあたりますかね。
この「我的三国演義」も凄く久々の更新になりました…まるで「バガボンド」のように無期休載になってましたよね。
まぁ待ち望んでいた読者もいないと思いますが、次回の更新はなるべく早くできるように頑張ります。
次回「第十巻」では、「赤壁」にて劉備・孫権連合軍と曹操軍が対決します
この巻の主な出来事です。
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207年(建安12年) 『劉備』、「三顧の礼」で『諸葛亮』を迎える。
208年(建安13年) 『曹操』、「荊州」を攻め、「劉」が降伏。
『諸葛亮』、『孫権』と会見し、同盟を結ぶ。
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さて“三顧の礼”で『諸葛亮』を得た『劉備』ですが、2人の親交が深まるにつれ、『関羽』や『張飛』が不満をぶつけます。
それに対し『劉備』は「私に諸葛亮が必要なのは、魚が水を必要とするのと同じようなものなのだ」と語り、なだめました。
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(四川省綿陽市「富楽山」にある『魚水君臣』像です)
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「三国志演義」では「博望坡の戦い」という『諸葛亮』のデビュー戦が描かれています。
まだ実力未知数の『諸葛亮』にベッタリの『劉備』に嫉妬する『関羽』と『張飛』でしたが…『曹操』が「新野」に「夏侯惇」「于禁」「李典」らを出陣させました。
『曹操』軍は10万、対する『劉備』軍はわずか1万でしたが、『諸葛亮』が諸将に授けた作戦は「新野」の東北にある「博望坡」に敵を誘い込むというものでした。
当初『諸葛亮』の指図などに従えるか!といった感じの『張飛』や『関羽』でしたが、作戦通りに『曹操』軍を打ち破り、以後『諸葛亮』の実力を認めることになったのでした。
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所在地は「河南省南陽市方城県博望鎮博望村」です。
周囲が畑のど田舎に「博望坡」の石碑が立っています。
地図で見ても、かなり辺鄙な場所な上に、石碑が1つあるのみ…
…以上
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『劉備』らが世話になっている「荊州」の“牧”「劉表」は高齢で健康がすぐれず、しかも今は『曹操』の脅威にもさらされていました。
「劉表」には2人の息子がいましたが、嫡男の「劉」は病気がちでした。
後妻(蔡氏)との間にできた「劉」は、母(蔡氏)や蔡氏の弟で「劉表」の家臣「蔡瑁」らが擁立を企んでいました。
そのため「劉」は『諸葛亮』に助言をもらい、後継争いから身を引き、空席だった“江夏太守”を志願し、「夏口」へと去りました。
この「夏口」は“太守”であった「黄祖」が、父「孫堅」の仇討ちに燃える『孫権』軍に敗れたため、“太守”の座が空いていたのです。
そんな「劉表」は病床に『劉備』を呼び寄せ、「荊州をさしあげたい」と申し出ましたが、『劉備』はこれを辞退したといいます。
そして208年8月、『劉表』が息を引き取りました。
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翌9月、『曹操』みずから兵を率いて「荊州」に攻めて来ました。
しかし、この情報は「樊城」に駐屯していた『劉備』らには一切知らされておらず、『劉備』が気付いたときには『曹操』軍は近くの「宛」まで迫っていました。
『劉備』らは急ぎ南を目指して逃走しました。
「劉」のいる「襄陽」に着いたとき、『劉備』は「劉」に会見を求めましたが、このとき「劉」は迫り来る『曹操』軍におそれをなして席を立つことすら出来なかったといいます。
『劉備』は、「蔡瑁」ら降伏派と反降伏派の争いを見かねて、更に南下して行きました。
このとき『諸葛亮』は「劉を討てば荊州を手に入れられます」と進言しましたが、『劉備』は「自分には忍びない」と言って却下したといいます。
その後「劉」は「襄陽」を無血開城し、あっさり『曹操』に降伏してしまいました。
これは「蔡瑁」らの主張を受け入れたのですが、後に「劉」は“青州刺史”に任ぜられるものの、「青州」に向かう途中「蔡氏(母)」と共に『曹操』軍に殺害されてしまうのでした…。
『劉備』を慕って多くの民間人も南下していました。
「当陽」に着いたころには10万余りの人々、数千台の荷物がつき従ったため、1日の行程は10里あまりにしかなりませんでした。
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『劉備』は『関羽』に数百艘の船を支度させて民間人の多くを船に乗せ、『関羽』とは「江陵」で落ち合うことにしました。
それでも船に収容しきれなかった民間人は多く、彼らは『劉備』と共に陸路を進みました。
ある人が『劉備』に「民間人は足手まといになります。ここはすみやかに江陵に向かわれては」と助言しましたが、『劉備』は「自分に身を寄せてくれているのだ。見捨てることができようか!」と反対しました。
そして…「襄陽」で「劉」を降伏させた『曹操』は、『劉備』を討つ絶好のチャンスとばかりに夜を日についで追撃…ついに「当陽」の「長坂」で『劉備』に追いつきました。
『諸葛亮』は「夏口」の「劉」に援軍を求めに行き、『張飛』、『趙雲』らも『劉備』とはぐれてしまいました。
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この時『趙雲』は、『劉備』の妻子の警護をしていました。
しかし、『曹操』軍の攻撃の中はぐれた事に気付き、単騎戦場へと引き返して行きました。
これを見て「趙雲は曹操に寝返った」と言う者がいましたが、『劉備』は「趙雲は私を捨てて逃げたりしない!」と叱りつけました。
『趙雲』は、まず避難民の中に「甘夫人」を見つけ、救出しました。
その後『曹操』軍に捕らえられ護送される「麋竺」を救出、そして『曹操』の側近「夏侯恩」と出会い、討ち取ります。
それから「阿斗」を抱いた「麋夫人」を橋の下で見つけました。
しかし、足に傷を負った「麋夫人」は、足手まといになると言い『趙雲』の制止を振り切って古井戸に身を投げてしまいました。
その後『趙雲』は「阿斗」を胸に抱きながらも、50人以上の『曹操』軍の兵を倒したといいます。
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所在地は「湖北省当陽市長坂坡」で、恐らく市内の中心部にこの「長坂坡公園」があります。
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入場料は無料で、公園内には「長坂坡の戦い」を再現した像が点在しています。
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『趙雲』ファンには堪えられない史跡の一つであることは間違いないでしょう。
到達難易度は「C」かな…当陽市内に出られれば容易に着けると思います。
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同じく当陽市内で「長坂坡公園」から徒歩でも行くことができます。
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「阿斗」を抱いた「麋夫人」が身を潜めていたのがこの「太子橋」です。
到達難易度は「C」かな…ちょっと道に迷ってしまいましたが、事前に正確な場所を調査できていれば難しくはないでしょう。
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「太子橋」からさらに歩くと「娘娘井」に辿り着きます。
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『趙雲』に「阿斗」を託し、「麋夫人」が身を投げた井戸です。
ちょっと場所が分かりづらく、見つけるのに苦労したので到達難易度は「B」ってことに。
…以上
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「阿斗」を抱きながら『曹操』軍の中を一騎で駆ける『趙雲』はようやく「長坂橋」に辿り着きました。
そこで殿を務めていた『張飛』があとを引き受け、『曹操』の大軍を待ち受けます。
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所在地は当陽市の外れの方かも知れません。
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殿を務めた『張飛』は「長坂橋」に仁王立ちし『曹操』軍を一喝
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『曹操』軍はその雄たけびに身動きも取れず…そしてその豪傑が『張飛』だと知ると退散してしまいました。
ここは「当陽站」に出て輪タクで行きましたが…面倒なんで到達難易度「B」にしておきます。
…以上
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(「赤壁古戦場」にある長坂橋の『張飛』像です)
その後『張飛』は「長坂橋」を破壊し、『曹操』軍の追撃を阻んで『劉備』の下へ戻ります。
そして「漢津」で『関羽』と「劉」の軍勢1万と合流し、「江夏」に辿り着いたのでした。
「劉表」の息子「劉」が太守を務めていたのが現在の「武漢」です。
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所在地は湖北省武漢市で武漢長江大橋の「黄鶴楼」がある方の反対岸です。(漢陽区)
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到達難易度は「D」ですね…武漢は「漢口」「武昌」「漢陽」と3つの区があり、バスやタクシーも区を越えて行かない場合もあって面倒ではありますが公園だから到達困難ではありません。
…以上
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こうしたなか『孫権』は幕僚の1人「魯粛」を「劉表」の弔問に派遣しました。
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そこで「魯粛」は『劉備』と会い、『劉備』は『諸葛亮』を「呉」へ派遣しました。
「呉」には『曹操』からの書状が届いていました。
共に協力して『劉備』を討とうという内容でしたが、応じれば服従を意味し、応じなければ攻め込まれる…「呉」内部では開戦派と非開戦派に別れ論争が続いていました。
そこに「呉」と「魏」を戦わせて天下三分を実現させようと目論む『諸葛亮』が現れます。
『諸葛亮』は「呉」の重臣たちと舌戦を繰り広げ、ついに『孫権』と会見します。
『諸葛亮』は『孫権』に「勝ち目が無いと思うなら降伏すべき」と進言します。
「ならば、なぜ劉備は降伏せぬ?」という問いに「劉豫州は王室の後裔です、もし事が成就しなかったならそれは天命、なぜ曹操ごときに降伏などできましょう」と答えました。
一度は怒りで席を外した『孫権』でしたが再び『諸葛亮』と話し、『劉備』と同盟して「魏」と戦う決心をしたのでした。
しかし、非開戦派の重臣に諌められてしまい、水軍提督の「周瑜」に委ねることにします。
兄「孫策」は死に際に「国内の問題は張昭に、外からの混乱は周瑜に相談するように」と言い残していたのです。
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『周瑜』は『孫権』の兄「孫策」の大親友で、「孫策」の妻は「大喬」、『周瑜』の妻は「小喬」という姉妹を娶っていたのです。
『諸葛亮』は『劉備』『孫権』同盟の鍵を握る『周瑜』とも面会をします。
降伏すれば戦火を免れるであろうが、君主『孫権』はどうなるのか…?
それに対して『諸葛亮』は「戦わず、降伏もせず曹操軍を引き上げさせる方法がある」と告げます。
それは「一艘の小船と2人の人間を贈り物とすればよい」ということでしたが、その2人とは「大喬」と「小喬」姉妹のことだったのです。
『曹操』は美人姉妹の噂を耳にし、それが手に入れば兵を引き上げるというのです。
それを聞いて激怒した『周瑜』は開戦を決意…「呉」は『劉備』と同盟し、『曹操』軍を迎え撃つこととなるのです。
-第十巻へ続く-
今回の「第九巻」は映画「レッドクリフ」の前編にあたりますかね。
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この「我的三国演義」も凄く久々の更新になりました…まるで「バガボンド」のように無期休載になってましたよね。
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まぁ待ち望んでいた読者もいないと思いますが、次回の更新はなるべく早くできるように頑張ります。
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次回「第十巻」では、「赤壁」にて劉備・孫権連合軍と曹操軍が対決します
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