映画「尼僧の恋」と付けるのは、
文庫本でも原作があるからです。
今は絶版になってるかと思いますが、
原作は書簡集の形式を取っていて、
揺れる女心が次第に狂気めいてゆく様が
時系列で進んで行きます。
マリアに感情移入していると、自分が悩んで居るような錯覚に陥ります。
さて映画の方はというと、冷たい石造りの修道院から自然に恵まれ温かな日差しと自由に溢れた生活で心が開てゆく少女がよく表されています。
そして恋落ちると(恋に落ちたことに気付かず)同時に湧き上がる不安と恐れに苛まれる見習い修道女のマリアが可憐に描かれています。
恋に落ちると、誰もが持つ不安と恐れは修道院から「悪魔の誘い」と教えられていたので、恋の甘さに気付くのには時間がかかり過ぎました。
しかしそれさえも罪だと思い違い、次第に心を病み健康を害してゆきます。
気付いた時には恋しい人は妹の夫に収まってしまった、という皮肉に打ちのめされる。
さらに夫婦がごく近くに新居を構えることによって、恋しさが募り、過去の美しい思い出が蘇り、罪の意識を強くしてゆきます。
不幸なことに相手の若者ニーノも、心の中の恋人はマリアだということが随所に示されます。
しかし今から200年以上前の設定ですから、家同士の決めた結婚に従ってしまう。
もちろん見習い修道女を還俗させる力も勇気も知恵もない。
唯一、マリアを救おうとする父親(母親は後妻でマリアをお人形のように扱う)も妻の反対を押し切れず、恋の行く末は絶望的になります。
マリアは「恋には甘い喜びがある」と気付いてしまい、己の罪と恋の甘さに引き裂かれ、ある嵐の夜思い余って修道院を抜け出し妹夫婦の家に駆け込んでしまう。
そこには子供を宿した妹と、マリアを忘れられないままのニーノが居ます。
ニーノの情け無さっぷりが露わになる瞬間、マリアの恋は昇華されます。ここは観る人によってかなり意見が分かれると思いますが、わたしとしてはマリアがニーノのグズグズの恋心に落胆したのではなく、互いに想いあっていることに感謝と納得を得て、恋が「愛」に昇華した瞬間だと思いました。
マリアは妹の姉への愛を気に留めず、ニーノとの永遠の別れも受け入れて修道院に戻ります。
その時交わしたたった一度の口づけが、マリアを強くしたのか、諦めたのか、というとその感情は全く描かれません。
暗転して
ただ暗く荘厳な雰囲気の、正式な修道女になる儀式に臨む姿が描かれるだけです。
ここも見る側にとって受け取り方が分かれるところだと思いました。
つらつらとあらすじを書いてしまいましたが、25年ほど前の作品を、20年ぶりに観ることができて、本当に幸せでした。
(イタリアに行きたい)
この間にわたしにも色々あって、劇場で観た時ほどガクガクとはなりませんでしたが、若さが眩しくてやはり落涙してしまいました。
原作の題名は「すずめ」なのです。
本来なら野に生きるはずのスズメが、鳥籠に捉えて飼い慣らされる不幸という比喩ではないかと思います。
邦題は「尼僧の恋」で正解かと思いました。