箕面の森の小さな物語(NO-22)
*<森の力 Go Go!>(1)
主婦の松坂 瞳は、今朝も早くから起き、食事の準備を始めていた。 子供と自分の二人分の朝食を作ると、次いでお昼のお弁当二人分をランチボックスにつめ、飲み物を用意した後、ベランダに出て今日の天気を確認する。 TVの予報では、午前中は晴れだけど、午後からは天候が雨模様のようだわね・・ 夏から秋への季節の移り目だから、特に天候には注意せねば・・ 雨合羽も傘も用意しなくちゃ・・
一通りの準備が終わると、賢治を起こしに寝室に向かう。 「ケンちゃん おはよう・・!」「アー ウー ウー ウー」 「今日は箕面のお山へ行くのよ・・ 早く起きよう・・」 眠そうにしていた賢治は、山と聞くとすぐに起き上がった。
瞳は賢治をトイレに連れて行き、次いで洗面所へ、それが終わると朝食を食べさせ、着替えを済ますと、もう賢治は玄関で早く早く・・ という仕草で待っている。 「ケンちゃん もうちょっと待ってね・・」「アー ウー ウー ウー」 今日は週1回の山歩きの日で、賢治は唯一生き生きとした目をする日なのだ。 それだけに瞳も頑張らねばと、気合の入る日でもあった。
賢治は14歳になったばかりだが、出産時のトラブルに加え、幼い頃から先天性脳機能障害・自閉症に精神障害を抱えていた。 ここ数年は少し落ち着いてきたので支援学校に通っているが、それでも週1回は特別に頼んで、二人で箕面の山歩きをしてきた。 それにはそれなりの理由があり、またその効果も着実にあるのだった。
瞳が夫の英和と結婚したのは39歳の時だった。 そして41歳の時、初めての子供 賢治を授かった。 瞳は長い間、日本のナショナルフラッグとして世界の空を飛ぶ航空会社のキャビン アテンダントとして活躍してきた。 しかし、会社の厳しいリストラ策もあり、同僚の英和と10年近い交際期間を経て結婚したのだった。 英和は今も国際線の機長として忙しく働いているので、賢治の世話はこの14年間ほどんど瞳一人でしてきていた。
当初は辛く苦しい思いの毎日だったけど、賢治の成長と共に、自分も一歩一歩と成長してきた感がする。 しかし、もう55歳を過ぎ、小柄な瞳は夫の背丈ほどに大きく成長した賢治を一人では到底抱きかかえる事はできなくなっていた。 それに長年の介護生活で腰痛に悩み、更年期障害もあって、後何年こうやって一緒に山歩きなどできるのかと、不安でいっぱいだった。 しかし、週1回の山歩きだけは何があっても頑張って二人で歩いてきた。 それは息子のいつもとまるで違う、生き生きとした喜ぶ笑顔が見たいが為だった。
それは10年前、賢治が4歳になった頃、ある日3人で箕面山中の勝尾寺園地を訪れ、近くの森の中を歩いた事があった。 その時、賢治がそれまでと全く違う表情を見せ、目を輝かせ、嬉々としている姿を発見したことが発端だった。 それ以来、夫の休日に合わせ3人で森の中を歩いたりしてきたが、それがいつしか週1回、家の近くの箕面の森を歩く瞳と賢治の習慣になっていった。 そして賢治は、その日が来るのをいつも心待ちしている様子だった。
賢治の症状は、脳に起因する認知や対人コミュニケーションの障害も含め、他人からの呼びかけに反応せず、特定の事には強いこだわりを持ったりする。 それに独り言で話したり、奇妙な動作をしたり、時には急にパニック状態になったり、自傷行為をしたりするなど特徴があり、更に精神遅延の知的障害を併発していた。 それだけに一人にすることはできず、常に誰かが目を離さないように見守っていなければならなかった。
現代の医学でその治療法は、事実上不可能と言われているのだった。 それだけに夫婦は、賢治の将来をどうしようかといつも悩んでいた。 賢治は人々が密集するような街を嫌う傾向があり、対人距離もおかねばならないので、気の休まる時がないのが現状だった。 それだけに森の中を歩き、自然を相手に過ごす事は最適の選択だった。
「さあケンちゃん そろそろ出発しようか・・ でかけるよ! GО GО!」「ゴー ゴー ウー ウー」 これが二人の合言葉だった。
二人は箕面駅前から瀧道に入り「一の橋」から左の桜道を上った。 早速 森の中から ツツー ピー ツツー ピー ツーピー とシジューガラの鳴き声が二人を迎えてくれる・・ 賢治はとたんに森を見上げ、 どこにいるのかな~ と見回すようにしながら元気な笑顔をみせた。 日頃見せないその笑顔に、いつも瞳は涙がでるほど幸せを感じるのだった。 パラ パラパラ バラ・・ と 木の実が落ちてきた・・ 見上げると高い木の上で、数匹の野生猿が枝から枝へ飛び移りながら、木の実を採って口に入れている姿が見えた。 賢治はその姿を飽きることなく眺めている・・
やがて坂道を上り、桜広場へ向かった。 「ケンちゃん 待って! もっとゆっくり歩いて・・ 最近だんだんと早くなるわねー 」 少し前まで、賢治は瞳と手をつないでゆっくりと歩いていたのに、もう足も早くなり、どんどん先に進むので、瞳は賢治の後をついていくのがやっとだった。
瞳はこの10年、賢治と一緒に箕面の里山から森の中を随分と歩いてきた。 週1回で年間50余回だから、もう500回位歩いてきた事になるので箕面の森の地理はそれなりに熟知していた。 それでも同じところを何度歩いても、四季折々の季節やその時々の天気、自然界の変化など、全く違う森の様相を体験してきたので、今迄飽きる事は一度もなかった。
「ケンちゃん 一休みさせて・・」 ずっと先に行く賢治を呼びとめ、桜展望所前で瞳は汗を拭った。 「ケンちゃん お母さん ケンちゃんの速い足についていけないの・・ だから お母さんに合わせてもう少しゆっくりと歩いて頂戴ね・・」 賢治は聞いているのか、聞こえないのか? 上空を飛ぶ鳥をじっと見つめている・・
瞳が双眼鏡をリュックから取り出しその鳥をみると・・ 「あら珍しい・・ あれはオスプレイね ほら鷹の一種のミサゴという鳥よ 急降下して池や川の魚を捕らえて食べたりするのよ 米軍が沖縄に配備した飛行機につけた名前と同じね・・ ケンちゃんもお空を飛んでみたいわよね・・」 瞳はいつも反応の無い賢治に、こうやって話しかけていた。 そしてこの10年 鳥の名前や樹木や花、植物、小動物、昆虫の名前まで、賢治と一緒に図鑑などを見ながら自然と覚えていた。
「さあ 出発しましょうか・・ GО GО!」「ゴー ゴー ウー ウー」 桜谷に入り、少し倒木で荒れた谷道を北へ向かって登る。 横手には小さな谷川が流れ、耳に心地いい響きが届く。 杉や檜の高木が林立し、昼なお暗き森が広がっている。
森の中にはいろんな樹木、植物、小動物や昆虫類、微生物など幾種もの生命体がいるし、地形的な高低変化が多い自然空間がある。 その一つ一つの様相や変化は、医療的なリハビリテーションがまかなえる自然環境なのだ。 森の中へ差し込む木漏れ日の光、森の中を吹き抜ける風、フィトンチッドに代表される森の香り、木々や植物、花々の発する自然の匂い、そして四季折々の変化、春の若芽の息吹から、夏の緑陰、秋の結実、紅葉、落葉、そして雪に覆われた景色、雨もあり、風もあり、森それ自体がバランスのとれた生態系であり、さまざまな生命体の集合であり一つの世界なのだ。 そしてこれらの環境要素をも森林と接する事は、人間が本来持っている内的な生活リズム、つまり内なる自然のメカニズムを取り戻す事ができる・・と、瞳は英和と共に賢治を通して肌で学び実感してきた事だった。
「ケンちゃん ここで休憩! お母さんに一休みさせてね・・」 賢治は瞳が一休みしている間、その周辺の森の中に入り、いつものようにキョロキョロしたり、何かを手にとって眺めたりしている。 瞳は自分の弾んだ息を整えながら、賢治から目を離さないようにして腰を下ろした。 「ケンちゃんが森の中で迷子にでもなったら大変だもの・・」 そして8年ほど前、親子3人で過ごしたキンダーガーデンのことを思い起こしていた。
しかし この後 瞳にとって人生最悪の岐路に立とうとしている事を知る由もなかった。
(2)へつづく