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Tシャツとサンダルの候

軍都を行く その1


私の祖父は、浮羽郡高見村の貧乏農家に生まれた。

9人兄弟の長男で、学歴と呼べるものは、僅かに尋常小学校のみである。

卒業後は、農業を手伝いながら、適齢に達するのを待ち、陸軍を志願した。

早い話が、貧しさ故の口減らしである。

配属は砲兵。

生来の怪力の持ち主で、行軍中立ち往生した野砲(もしくは荷車。その辺の記憶は曖昧)を引っ張り上げ、


「勲章ば貰ったとぞ。」


それが生涯の自慢だった。

そんな祖父の話を、幼かった私は、眉に唾を付けて聞いたものだ。

祖父が他界し、遺品を整理していたら、本当に勲章が出て来て、腰を抜かすほど驚いた。

同時に、祖父の武勇伝を信じなかった自分を悔いた。

そんな事も影響してか、私は旧陸軍遺構に強い関心がある。



またしても、前置きが長くなったようだ。

という訳で、今回も私の趣味嗜好に終始する。

しかも掲載する遺構は、以前の投稿と重複する物も多い。

早めに、このページを閉じられる事をお勧めする。



高牟礼会館。

自宅から歩いて数分にある。

通称【菊兵団】、国軍最強を誇った、旧陸軍第18師団長公舎跡だ。

現在は、久留米市の文化施設となっている。



隣接する童女木池は、桜が満開だ。




第18師団記念碑。




ここから御井町方面へ。



久留米大学御井キャンパス。

折しもこの日は卒業式らしい。



旧陸軍久留米工兵隊門柱は、フェンスの内側にひっそりと建っていた。

門柱にもその周辺にも、名称や由来を示す一切の物はない。

卒業する彼らは、この門柱の事を知っているのだろうか?



矢取方面へ



路傍に《御宴會場之跡》と彫られた石碑が立つ。

明治44年、特別大演習が久留米で行われた。

それを統監する為、明治天皇は病を押して巡幸している。

この石碑は、その際のものであるようだ。


更に進む。



高良内町と競輪場を結ぶ二つの袴道橋が架かっている。




奥の方の橋を登って行くと、旧陸軍給水塔跡がある。




円形のコンクリート製タンクだったようだ。

ここに一旦水を溜めて、軍施設へ配水していたようだ。

戦後、危険防止のため、内部は土で埋められているとの事。



裏に回ると、急傾斜の石段がある。




70余年の時の流れは、頂上部をジャングルへと変えた。




すぐ下を流れる高良川の土手には、陸軍敷地境界を示す杭がある。


跨道橋を渡り、旧陸軍墓地(現久留米競輪場)へ。



臨川台。




資料には、眼下を流れる高良川の監視場となっている。




陸軍橋。










ドイツ軍俘虜慰霊塔。




円形野外講堂。




遥拝台。

陸軍墓地にある宮城遥拝塔である。



現第4特科大隊。

旧歩兵48連隊跡地である。



ここから、南町方面へ。



テクテクテク



続く
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