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広島の原爆で被曝し、1955年に白血病のため亡くなった佐々木禎子さんを明らかに題材にした作品で、ロシア語で発表されたものを探していましたが、現時点で見つかったもののうち、もっとも古く書かれていたのは、1958年、マクシム・タンクがベラルーシ語で書いた詩「佐々木禎子の鶴」でした。
マクシム・タンクはベラルーシの国民的詩人で、ベラルーシでは知らない人がいない有名人です。
そのタンクがロシア語ではなくベラルーシ語で書いた詩が、ロシア語圏内では佐々木禎子さんを題材にした作品の中では最も古い(推定)ことが分かり、私も思うところがありました。
当時はロシアもベラルーシもソ連という国だったのですが、公用語はロシア語でした。そんな中で、ソ連の端にある国でしか使われていないベラルーシ語でベラルーシ人の詩人が、佐々木禎子とフルネームを出した詩を書いたことには意義があります。
当時は冷戦時代で、アメリカもソ連も核実験を繰り返していました。ソ連ではセミパラチンスクが実験場でしたが、これは今のカザフスタンにあります。ロシア国内ではないのです。
さて、マクシム・タンクはベラルーシ語で「佐々木禎子の鶴」を書いたのは1958年と記したものの、実際にこの詩が、詩集「Мой хлеб надзённы」に収録されて発表されたのは1962年のことです。
ところがこの詩は、ロシア語に翻訳されて、まずはロシア語の作品として、単独で文芸雑誌「Дружба народов」1959年11月号の93ページに掲載されました。この雑誌の名称は日本語で「民族友好」、7万5千部発行で、ソ連中で読まれていたのですから、
リンク先はこちら。
この雑誌の名称は日本語で「民族友好」、7万5千部発行で、ソ連中で読まれていたのですから、ベラルーシ人しか知らないベラルーシ語で発表するより、ロシア語で雑誌に載せるほうが多くの人に読んでもらえる、つまり佐々木禎子さんのネームバリューも大きくなったと思います。
ただ、このロシア語訳は Я. Хелемскийという翻訳者が担当したのですが、作品の一部(新聞記事からの引用部分)を訳していないのです。
省略された部分はベラルーシ語オリジナルで読む必要があります。(2)に続く。
・・・
画像は「佐々木禎子の鶴」ロシア語訳が掲載された文芸雑誌「Дружба народов」1959年11月号の表紙。これがロシア語で「サダコの千羽鶴」を題材にしたロシア語で最初の文芸作品と思われます。(推定)
マクシム・タンクはベラルーシの国民的詩人で、ベラルーシでは知らない人がいない有名人です。
そのタンクがロシア語ではなくベラルーシ語で書いた詩が、ロシア語圏内では佐々木禎子さんを題材にした作品の中では最も古い(推定)ことが分かり、私も思うところがありました。
当時はロシアもベラルーシもソ連という国だったのですが、公用語はロシア語でした。そんな中で、ソ連の端にある国でしか使われていないベラルーシ語でベラルーシ人の詩人が、佐々木禎子とフルネームを出した詩を書いたことには意義があります。
当時は冷戦時代で、アメリカもソ連も核実験を繰り返していました。ソ連ではセミパラチンスクが実験場でしたが、これは今のカザフスタンにあります。ロシア国内ではないのです。
さて、マクシム・タンクはベラルーシ語で「佐々木禎子の鶴」を書いたのは1958年と記したものの、実際にこの詩が、詩集「Мой хлеб надзённы」に収録されて発表されたのは1962年のことです。
ところがこの詩は、ロシア語に翻訳されて、まずはロシア語の作品として、単独で文芸雑誌「Дружба народов」1959年11月号の93ページに掲載されました。この雑誌の名称は日本語で「民族友好」、7万5千部発行で、ソ連中で読まれていたのですから、
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この雑誌の名称は日本語で「民族友好」、7万5千部発行で、ソ連中で読まれていたのですから、ベラルーシ人しか知らないベラルーシ語で発表するより、ロシア語で雑誌に載せるほうが多くの人に読んでもらえる、つまり佐々木禎子さんのネームバリューも大きくなったと思います。
ただ、このロシア語訳は Я. Хелемскийという翻訳者が担当したのですが、作品の一部(新聞記事からの引用部分)を訳していないのです。
省略された部分はベラルーシ語オリジナルで読む必要があります。(2)に続く。
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画像は「佐々木禎子の鶴」ロシア語訳が掲載された文芸雑誌「Дружба народов」1959年11月号の表紙。これがロシア語で「サダコの千羽鶴」を題材にしたロシア語で最初の文芸作品と思われます。(推定)