谷地矢車『廉太郎ノオト』(中央公論新社)を読み終えました。
後半は、もう辛くて辛くて・・・
最後の数頁は涙が止まりませんでした。
主人公は、音楽家・滝廉太郎(明治12/1879ー明治36/1903)。
大分の名家に長男として生まれ、
父の反対を受けながらも、東京音楽学校に最年少で入学・・・
ドイツに留学したものの、結核に倒れ帰国、24年の短い生涯を終えています。
(「廉太郎ノオト」、タイトルもイイですねぇ♫
書影は版元ドットコムより貼付けました)
わたしは小学生の頃、「荒城の月」をクラスで合唱し、
それをきっかけに「箱根八里」「花」など廉太郎の曲を知りました。
そんなこともあって、ずっと作曲家のイメージを持っていましたが
『廉太郎ノオト』で描かれるのは
ピアノが大好きな音楽学校の学生です。
やがて若き講師となりますが、
ひたむきに音楽へ向かう姿勢は変わりません。
それはもう、真面目すぎるほど真面目で、読んでいて苦しいくらい・・・
そして、彼を取り巻く、友人、恩師、ライバルに・・・
明治の文豪・幸田露伴、その妹で、共にバイオリニストの延と幸。
延は廉太郎の恩師として、幸は憧れの存在として描かれます。
「エール」で柴咲コウさん演じる「二浦環」のモデル・三浦環は教え子。
その他、「荒城の月」作詞者・土井晩翠、
日本近代児童文学の先駆者・巌谷小波など、明治を彩る人物がズラリです。
作者の谷地矢車氏は、若手の時代小説家。
明治の雰囲気が立ち上ってくるようで、
明治・大好きなアタクシとしては、たまりませんでした♫
(岡城にも立つ滝廉太郎像。『滝廉太郎』<18頁>によれば、作者の朝倉文夫は、
滝の竹田高等小学校時代の後輩。オルガン演奏を許されていた、尺八を吹き全校生徒を感激させた、など11歳の頃の記憶を基に「楽しく仕事を終つた」そうです。)
実は・・・
ここ一月ほど、滝廉太郎のピアノ曲「憾(うらみ)」を練習しています。
先にも触れた「荒城の月」以来、滝廉太郎の名は、
少女の頃から、わたしの中で燦然と輝き続け・・・
数年前に大分を旅した折には、滝廉太郎ゆかりの地も歩きました。
あわせて評伝、小長久子氏『滝廉太郎』(吉川弘文館)も読んでいます。
ところが、廉太郎が幼い頃、横浜に住んでいたことに一番感激したという・・・
我が、お粗末さ。
「憾」の存在を知ったのは、つい最近でした。
ネットで聴いて大感激、即、楽譜を買いに走りました。
この曲が、廉太郎の絶筆だと知ったこともあり、
今、いっそう入れ込んでいます・・・
とにかく、廉太郎の人生が凝縮されたような、すんばらしい曲なのです!
(竹田氏の岡城。先日の豪雨で石垣に被害が出たとか・・・今も降り続く雨に、
これ以上の被害が出ないよう祈るばかりです)
『廉太郎ノオト』では、この曲を、どう登場させるのかが一番の楽しみでした。
期待いっぱい、ちょっぴり不安も感じつつ、読み進めていました。
さて・・・
結論から申しましょう。
最高の描き方でした!
後半、読みながら泣きに泣いたのは、「憾」の扱いが、予想を超えて素晴らしく、
「ああ、そうだよね、そうだよね」と、亡き滝廉太郎に語りかけるような気分に
なったからです。
このピアノ曲「憾」については、またいずれ、
ピアノ・カテゴリーで綴りたいので
今日は、このあたりで、お許しを。
(以下の画像は、大分県竹田市、滝廉太郎記念館。少年時代を過ごしました。)
本日は、あくまでも『廉太郎ノオト』のお話でまいります。
最後に号泣してしまったのは、「終」、エピローグの部分です。
ネタバレになるので、ちょっとだけ。
廉太郎は、留学前に、ある人物へ約束をします。
それは、廉太郎の一方的とも言える約束なのですが、
彼の生きる意味と言うべきか・・・
「終」で、その約束の行方が明らかになるのです。
ここが号泣ポイントでした・・・
アタクシ、泉下の滝廉太郎様に、
「廉太郎さん、そうだよね、そうだよね」と
またしても話しかけてしまいましたw
ピアノで「憾」を弾きはじめてから、
小長久子『滝廉太郎』(吉川弘文館)を読み返したものの、
「憾」については、あっさりした記述しかなく・・・
史料重視の歴史カテゴリーの本なので、仕方がありませんが・・・
そんなときに、この『廉太郎ノオト』!
偶然と言うには、あまりにも嬉しい出会いでした。
わたしにとって、『廉太郎ノオト』と出会えたことは、まさに「邂逅」です!
今、コロナ禍は、ますます脅威となっています。
新型コロナウィルスと同じように、
滝廉太郎の命を奪った結核も感染性の病であり、
戦前は死病として恐れられました。
作中、廉太郎は、ドイツからの帰路、ロンドンで土井晩翠に出会いますが、
「感染性の病気」であることを理由に握手を断ります。
また、帰国した日本では、最大の恩人への焼香すら、
その妻から断られてしまいました。
「弔問客の皆さんに病気をうつすわけにはいかないでしょう」と。
結核は、第二次世界大戦後に、生活の向上や抗生物質の出現で、
きちんと予防をし、万が一罹患しても、治療をすれば
命を落とさなくてもすむ病となっています。
でも、廉太郎の時代は・・・
決定的な治療法もなく、だんだんに弱っていくしかなかったわけで・・・
それは、今、わたしたちが感じているコロナへの恐怖と重なるようで・・・
このコロナ禍も、1日も早く、ワクチンが開発され、
終息へ向かってくることを願ってやみません。
余談ながら・・・
以前、小長氏の『滝廉太郎』を読んだとき、生家にあった遺品は楽譜も含め、
母の手によって、全て焼却されたことに憤慨しました。
なんて臆病な、おばあさん・・・と。
でも、『廉太郎ノオト』を読み、焼却は「当局からの指示」によるものだったのだと
知りました。
また、今、自分がコロナ禍にいて、
当時の人々が、どれほど結核を恐れていたことも
ようやく、分った気がしています。
◆本日の大分県竹田市の画像は、2016年夏の旅で撮影しました。
◆ピアノ曲「憾」は、滝廉太郎のプロフィールや曲の背景も流れる
以下の佐藤麻美子氏の演奏が、オススメです♫
→https://www.youtube.com/watch?v=KxSoqe9L13o