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諜報教育の「二俣分校」~ふじのくに紀行

2021-11-21 | おでかけ
おはようございます。

本日は「ふじのくに紀行」の戦跡編です。
静岡県浜松市天竜区二俣、「陸軍中野学校・二俣分校跡」について、
備忘録を兼ねてのアップですが、おつきあいいただければ、嬉しいです。



(碑とともに、補修テープの貼られた錨や敷地の境界杭もありますが・・・)


・・・といっても、今は、天竜保健福祉センターや天竜区役所が
並んでいて、当時の面影は、ありません。
冒頭画像「陸軍中野学校二俣分校校趾碑」が、建てられているだけでした。



「陸軍中野学校」といえば、
インテリジェンス(諜報)教育で知られています。

以前、明治大学キャンパスに残る、旧登戸研究所を見学した折、
戦前の諜報活動では、新宿からの沿線で
「登戸ではモノを作り、中野では人を作った」と聞きました。

その分校が、遠く離れた、山間につくられていたのです!

陸軍中野学校は、昭和15(1940)年誕生、敗戦とともに廃校、
卒業生は2300余名。(跡地は、東京警察病院になっている)

一方、二俣分校は、1944年9月開校・・・
敗戦を迎える、わずか一年前のことです!


(展示されていたイラスト。
今も流れる川や、大きく成長した木に、当時のわずかな面影が・・・)


以下、インテリジェンス研究の第一人者・山本武利氏の著作
『陸軍中野学校ー「秘密工作員」養成機関の実像』(筑摩書房)を参考に、
「二俣分校」について、まとめます。

昭和19(1940)年、既に、戦うための武器や飛行機、軍艦が
圧倒的に足りなくなっていました。
そこで、人の力による遊撃戦、つまりゲリラ戦での打開が期待されたのです。

そのためには、インテリジェンス的センスも必要だろうと、
工兵隊である陸軍第三師団の演習場だった、二俣演習場廠舎を改造し
「二俣分校」が、急ぎ開校されました。



けれど、二俣「分校」という名前は、公文書にはありません。
この地に掲げられた当時の表札も「陸軍二俣幹部教育隊」↑でした。

「ゲリラ指導者としてはかなく散る将校ではなく、
『遊撃戦幹部教育隊』として育成しよう中野学校当局の自負がうかがえる
ネーミング」(064頁)と、山本氏は指摘しています。

敗戦一年前(もちろん、当時の人は知らないわけですが)
切迫した戦況の中、この機関への期待の高さということなのでしょう。



そのわずか一年ほどで、600名の卒業生を数えます。
教育機関は、当初3ヶ月、後に2ヶ月へと短縮され、
第一期生は221名の入学者を数えました。

彼らは学徒出陣者の高学歴者揃いながら、
必死に勉強しないわけにはいきません。

極秘印のテキストは講義が終われば取り上げられる、
学んだ内容は、時間内で全て頭にたたき込まねばならない・・・
といった厳しいものだったからです。

極秘のノウハウを流出させない、
また防諜においても頭に情報をインプットすることが
必要だったためでした。

「二俣分校の特異性は『破壊』『殺傷』の実演が繰り返しなされている
こと」にあり、「遊撃戦専門将校養成所として同校が特化されていたことが
分かる」とも書かれていました。


(二俣城からの眺め)


戦後1970年代に、「二俣分校」が、
一躍知られるようになったことがあります。
小野田寛郎氏が「二俣分校」の卒業生だったからです。

昭和49(1974)年、春、小野田寛郎氏ルバング島から帰国しました。

小野田氏は、敗戦後30年近くの間、
作戦任務解除の命令を受けていないため、
ひとり、フィリピンのルバング島で戦い続けていたのです。

当時、私は小学生でしたが、小野田氏の背筋が伸びた、たたずまいに驚嘆。
早速、子ども向けに書かれた『戦った、生きたルバング島30年』(講談社)を
読んだことを覚えています。




小野田氏が帰国15年後に書いた著作
『我が回想のルバング島ー情報将校の遅すぎた帰還』(朝日新聞社)の
二俣分校卒業からフィリピン赴任までの回想をまとめると・・・

小野田氏は、二俣分校の第一期生、22歳でした。
卒業するとすぐに、当時、決戦の地となっていたフィリピンへの
派遣を命じられます。

「明朝午前五時宇都宮飛行場に到着すべし」

二俣から宇都宮まで・・・猶予20時間で!
しかも、数日前には東海大地震が発生し、東海道線は不通、
最寄りの浜松駅からは乗車できません。

結局、学校のトラックで掛川駅まで行き、折り返し運転の
満員電車へ乗り込んで東京へ、次いで空襲警報に遭いながら、宇都宮まで。
「それでも二十歳を少し出たばかりの我々は闘志を失わなかった」と。



やがて「小野田見習士官は、ルバング島へ赴いて、
同島警備隊の遊撃戦を指導せよ」の命令を受けます。

さらに、第十四方面軍参謀長・武藤章中将から激励されます。
「玉砕は一切まかり成らぬ。必ず迎えに行く。椰子の実をかじってでも
頑張ってくれ」と・・・

こうして、小野田氏は民間人に偽装して、
フィリピン、ルバング島へ向かったのでした。


(松平信康は二俣城で自刃後、清瀧寺に埋葬されました)


実は、2018年秋にも、我が家は、ここ二俣を訪ねています。
(「二俣分校」関連以外の画像は、そのときに撮影)

憧れの♥千田嘉博・奈良大学教授のご講演を聞き
地元の学芸員さんのご案内で、二俣城跡・鳥羽山城を見学。
徳川家康の嫡男・信康の菩提寺・清瀧寺 もお参りしました。

そのときには、二俣分校跡に、全く気づきませんでした。

今回は、静岡の戦跡をチェックしていて、たまたま知ったのです。
山間の静かな街に、「中野学校分校」の歴史があったとは・・・
土地の記憶、歴史の重さに、めまいがしそうでした。

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おつきあいいただき、どうもありがとうございました。

現地の案内や以下の本を参考にしましたが、
わたしの読み違いや勘違いもあることと存じます。
素人のことと、どうぞ、おゆるしくださいませ。

●山本武利『陸軍中野学校ー「秘密工作員」養成機関の実像』(筑摩書房)
●小野田寛郎『我が回想のルバング島ー情報将校の遅すぎた帰還』
(朝日新聞社)

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