おはようございます。
本日は、先週、出かけた母娘・旅の奈良編です。
どうぞおつきあいくださいませ。
聖武天皇と光明皇后の御陵です。
この旅では、ぜひ、お二方の面影をたどりたい(=妄想する)と
思っていました。
案内役は、亀井勝一郞『大和古寺風物詩』(新潮文庫)。
昭和の文藝評論家が、奈良の仏教文化の跡を訪ねた随想集です。
「東大寺」の章は、佐保山御陵の参拝から始まります。
「あたかも比翼塚と申してもいいような有様の下に眠らせ給うておられる」
「その小高い御陵は、鬱蒼たる雑木におおいつくされ」
「昼なお暗い樹間には古の栄耀を思わす如く蔦葛の美しく紅葉して...」174頁
昭和17(1942)年秋の文章ですが、
御陵という場所柄、今回と当時は、さほど変わっていないことでしょう。
ただ季節は春、「紅葉」を「桜」に変えなければいけませんね・・・
(佐保山の御陵入り口)
聖武天皇と光明皇后と言えば、仏教に篤く帰依し、
東大寺、国分寺、悲田院、施薬院・・・
歴史で習った言葉が、次々に出てきます。
そのせいか、なんとなく、遠い歴史の人でした。
ところが・・・
今、畏れ多くも、光明皇后に惹かれ、親近感すら抱いています。
それは『大和古寺風物詩』で、光明皇后の御歌を知ったからでした。
「我が背子と二人見ませば幾許かこの零る雪の懽 しくあらまし」
(わがせこと ふたりみませば いくばくか このふるゆきの うれしくあらまし)
ー「万葉集」第8巻1658番
「あなたと二人並んで、雪の降りしきるのを眺めていたら
どんなに嬉しいことでしょう」
夫、つまり聖武天皇への純粋な想いが、まっすぐに伝わってきます。
(天皇陵と皇后稜の矢印案内)
お二方の天平の世は、「天平文化」として、歴史で習うほど
今も、高く評価されています。
でも、実際は・・・
亀井氏は「そこにはあらゆる美と荘厳と、また悪徳の深淵が渦巻いていた」
時代で、常に聖武天皇に寄り添われた光明皇后は、
「胸中に万感の思いを抱いていたに違いない」と書きます。
そう思って読むと、雪を眺める、先の歌に込められた想いが、
いっそう胸に迫ってくるようです。
(佐保山南稜・聖武天皇の御陵)
諱を安宿媛姫(アスカベヒメ)という姫君が、「光明子」と呼ばれるのは、
光り輝くように美しく、また聡明だったから・・・
とはいえ、姫は藤原氏、臣下の出身。
当時の令制では、皇后と妃は内親王がなるものと決まっていました。
また、母の家の位が重視されていたのに、光明子の母は橘三千代。
さほど高い位の出身ではありません。
橘三千代もよく知られた女性です。
亀井は「稀代の辣腕家」としていますが・・・w。
とにかく、この三千代は、連れ子3人を連れ、
藤原不比等と再婚したのです。
そして産まれたのが、光明子でした。
ちなみに不比等は、
「大化の改新」の功労者・中臣鎌足の次男にして、後継者です。
(築地塀の脇を抜け、南稜から光明皇后の東稜へ。)
臣下の出身ゆえ、本来だったら、立后できないはずながら、
「長屋王の変」の悲劇の記憶もままならぬ頃のこと、
皆、異議も申し立てず、光明子は皇后となったのでした。
そういった事情を、聡明な皇后が、気づかぬはずがありません。
全て、わかっているからこそ、
光明皇后は、いっそう聖武天皇を愛し、支えようと努め、
また、慈悲の心を持ち続けたのではないでしょうか・・・
(佐保山東稜 光明皇后の御陵 桜がきれいでした。)
亀井勝一郞は先の歌について、こんな風に続けています。
「調べが清らかで、愛情の濃やかに滞ることなく流れている名歌である。
光明皇后の美しい御歯並さえしのばるるではないか。
高貴な血統に育った方の気高さがおのずからにじみ出ている」
まさに、手放しの褒めようです!
しかも、美しい御歯並びって・・・w
でも、分かる気がしました・・・
(奈良で見る馬酔木♫ しかも佐保山御陵・・・感動)
佐保山の周りは、今、郊外の住宅地になりました。
80代の母と一緒に、ここまで歩いてくるのは、ちょっと大変です。
タクシーで出かけ、運転手さんに、そのまま待ってもらって、
参拝しました。(母は、南稜だけ)
次は、いよいよ東大寺です。
聖武天皇と光明皇后が、心血を注がれて造営なさいました。
東大寺参拝記についても、どうぞ、また、お立ち寄り下さいませ。
本日も、おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
📖参考
●亀井勝一郞『大和古寺風物詩』新潮文庫
●阿部光子「光明皇后」『栄光の女帝と后』(「人物日本の女性史」2)
集英社