おはようございます。
先週出かけた、母娘の京都・奈良旅、
どうぞ、おつきあいくださいませ。
亀井勝一郞『大和古寺風物詩』(新潮文庫)を案内役に
光明皇后に惹かれての、東大寺参りです。
聖武天皇と光明皇后と言えば、天平文化、東大寺・・・!
東大寺が素晴らしい遺産であることは、重々、承知の上で申します。
実は、今まで、偉大すぎて、権力者の自己満足のようで、
あまり興味が持てませんでした。
(生意気盛り、10代での歴史の授業で学んだ結果・・・お許しあれ)
でも、今回で、見方が変わりました!
大仏の造営は、権力者の一方的な所業ではなかった、
庶民への想いが深くあったのだと。
この時代は「天平文化」、たとえば正倉院の御物のような芸術品や
寺社仏閣の建造などから、華やかな印象です。
確かにそうなのでしょうけれど・・・
たとえば山上憶良の「貧窮問答歌」(「万葉集」巻五)。
聖武天皇の侍講(家庭教師的な役割)を務めた歌人は、
ボロをまとい、寒さに震え、食べるものもない庶民が
役人の声に脅える暮らしを歌いました。
亀井勝一郞も「続日本紀を読むと、この時代には盗賊や殺人や略奪も多く、
人心不安だったことがうかがえる」と書きます。
(ああ、今のウクライナのようです・・・)
そんな国の状況を踏まえた上で、聖武天皇と光明皇后のお二方は、
大仏造営を始めたのであり、その想いを以下のように説明しました。
「民草のすべてが仏陀の教えにめざめ、国内悉く平穏に、
いわば我が国そのものが浄土の荘厳を現出するよう、お二方は祈念され」
「全国の国分寺すべての本尊として大仏鋳造の念願を発せられた」と。
それも、一方的にではなく、自発的に、「地上天国」ともいうべき
大仏鋳造を願ったというのです。
それがよくわかる例として
天平15(743)年10月の「大仏鋳造の詔」が引かれていました。
「若し人の一枝の草一把の土を持ちても像を助け造らんと情願する者あらば
恣にこれを聴(ユル)せ、国郡等司此の事に因りて百姓を侵擾して
強ひて収斂するなかれ」
(民が一枝の草、一握りの土を運び、像を造る手助けをしたいというなら
思い通りにさせてやりなさい。
けれど役人は強制的に、民を働かせてはならない)
要は、大仏殿の造営は、お国だけの事業ではなく、
民も自発的に手伝って完成させましょう・・・ということ。
心からの助力による、結縁(縁ができ成仏につながる)を求めたのです。
この詔は、東大寺のパンフレットにも書かれ、
東大寺ミュージアムでは、入り口の映像案内でも触れていました。
以上、わたしの理解でまとめたので、違っていたら申し訳ないです・・・
さて、このとき、聖武天皇に、大仏造営を強く働きかけたのは、
光明皇后だったそうです。
「暗黒の裡にこそ信仰の光は輝き出ずる」
と亀井も書いています。
聖武天皇は人心不安な国を憂い、また臣下を束ねるご苦労もあったでしょう。
光明皇后も、臣下の出身、本来なら立后できる身ではなく、
実家・藤原氏の行動が、夫を苦しめていることもわかっていたいはず・・・
それだけに、いっそう仏教を篤く信仰し、
全ての人々の心がひとつになることで、大仏造営を願ったのだと
深く感じました。
天平勝宝4(752)年4月、大仏開眼供養が行われました。
聖武天皇は既に出家され、娘の孝謙天皇が即位されており、
ご両親は、太上天皇、光明皇太后となられています。
この日、お三方は揃って出御、大仏殿の上に立たれました。
さらに文武100官、1万26人の僧侶が参集、
東大寺門前には数万の民がひしめき、拝したそうです。
さて、令和の御代、わたしたちが東大寺に着くと、
ちょうど仏生会(花祭り・甘茶掛け)の最中でした。
コロナ禍、いつもよりは控えめにしての行事でしょうが、
華やかに飾られた、大仏殿の前には、甘茶掛けの行列ができ・・・
その行列は、ますます伸びていくように見えました。
天平勝宝のあの日は、いかばかりだったか・・・
仏生会の華やぎは、遠い遠い、天平の御代、
大仏開眼の日を妄想させるに十分でしたw
最後に、昨日、衝撃の報道がありました。
14日夕方、大仏殿の外壁に、油のような液体がまかれていたとのこと。
なんという不届き者!
どんなに法律を厳しくしたとしても・・・結局は、心の問題。
1200余年の時を経て、生活は、そこそこ落ち着いたものの・・・
お二方の想いには、まだ遠いようです。
どうか、平和で穏やかな世界でありますように・・・
本日もおつきあいいただき、どうもありがとうございました。
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📖参考
●亀井勝一郞『大和古寺風物詩』新潮文庫
●阿部光子「光明皇后」『栄光の女帝と后』(「人物日本の女性史」2)
集英社
集英社
●東大寺パンフレット