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#2341 使い捨てされる首相たち

2023年01月17日 | 国際・政治

 2022年の後半以降、岸田文雄内閣への支持率が急激に低下しつつあると、各種メディアが伝えています。

 昨年暮れの日本経済新聞によれば、政権支持率は最も高かった5月の66%から下がり続け7カ月連続で下落、12月には35%とほぼ半分になっているとされます。支持率を押し上げてきた60歳以上の層だけ取り上げても、5月の(73%)から12月(38%)にかけてほぼ半減しているということです。

 この間、安倍晋三前総理の国葬問題に始まり、旧統一教会に関連した政治と宗教の関係、政治とカネの問題に絡む閣僚の相次ぐ辞任など、政策以外の部分で大きく足を取られた感は否めません。

 一方、3年越しとなった新型コロナはなかなか収束が見込めず、世界的な物価高は消費者の懐を直撃していて、国政のハンドリングは困難さを増す一方と言えるかもしれません。私も年末に首相の講演を聞く機会がありましたが、いつもの感じで淡々と原稿を読む(少し元気のない)その姿に、少し気の毒な気がしたのも事実です。

 そんな折、12月21日の情報サイト「Newsweek日本版」に、ジャーナリストの冷泉彰彦氏が『なぜ日本では首相が「使い捨て」されるのか?』と題する論考を寄せていたので、参考までにその一部を残しておきたいと思います。

 支持率を下げる岸田政権だが、もしもこのまま下降して30%を割るようなことになれば、来春の統一地方選を控えた自民党内に「不人気な内閣を担ぎ続けるのは難しい」という声が上がってくる可能性も否定できないと、冷泉氏はこの論考に綴っています。

 そのような中で、今回、政局化してきた防衛費の増額と財源の問題。政権与党の中にある、そもそも国民の合意を得にくい政策を「死に体内閣」に委ねて法案を通す、つまり内閣を「使い捨てる」という雰囲気さえ感じられるというのが氏の指摘するところです。

 実は、この首相の「使い捨て」には多くの前例があると氏は言います。例えば、平成初期の竹下内閣では、長い間実現できなかった消費税導入を断行し、引き換えに内閣の命運は尽きてしまった。近いところでは、(前政権である)菅義偉内閣は、ジリ貧となっていた内閣に福島の処理水放出という難しい問題を迫り、内閣の命運と引き換えに政策を通した観があるということです。

 もっとも、こうした首相の「使い捨て」については、野党の方にも「現役の首相の首と引き換えなら仕方がない」と評するような雰囲気があって、結局は民意の過半数が反対していても、政権与党としては懸案を解決できてしまうと氏はしています。

 一方、期待された新政権も、(有権者に飽きられてしまえば)遅かれ早かれ支持率は急降下し、結局は「首のすげ替え」をしなくてはならなくなる。気が付けば、1~2年の間隔で(与党の中で)次々と政権が使いまわされ、民意に反する政治決定も積み上げられていくということです。

 それでは、(公正な選挙が行われているはずのこの日本で)どうしてこのようなことが起こるのか。それは、特に日本の政治の場合、「首相になるために必要なスキル」と「首相として成功するためのスキル」が全く別物という問題があるからだというのが、この論考における冷泉氏の見解です。

 日本で首相になるためには、まず派閥の領袖(ボス)になる必要がある。そこで必要になるのは、あくまで密室での交渉力だと氏は言います。

 自分の派閥のボスに取り入り、派閥が混乱した際には誰についていくかを考え、自分の担ぐリーダーのために各方面に工作して回る。そして派閥の幹部になったら派閥の次期リーダーになるために、自分を支持する議員を囲い込む競争に勝利する。これはどれも、一対一による密室での(相当な)コミュニケーション能力が求められる作業だというのが氏の認識です。

 しかし、密室での交渉を延々と重ねた末に内閣総理大臣の椅子を勝ち取った途端、求められるのはマイクの前に立って「国民の皆さん」に「自分の言葉」で話すこと。選挙を勝ち抜いてきた手練れの政治家とは言え、選挙演説はあくまで支持者を対象としたものなので、これは全く次元の違う技術(能力)だと氏は話しています。

 特に(今回のような)増税案の発表などは「国民に負担を要求する」という内容であり、利害が相反する中で理解を求めるという難しいタスクとなる。もちろん、(岸田首相もそうだが)「官僚の作文」を棒読みするような言葉では有権者の心に届くはずもなく、反感さえ買うのは分かっていても、結局棒読みするしかできないということです。

 これでは、首相が国家のリーダーとして、求心力を持つことは難しいとしか言いようがない。総理総裁への道は、閉鎖的な自民党内のさらに閉鎖的な派閥の中で培われてきたもの。そうした環境で勝ち抜くスキルは、首相として成功するには全く役に立たないと氏は言います。

 つまり、日本の首相が有権者にとっていまひとつ物足りないのは、一人一人の首相の資質の問題ではなく(リーダーを選ぶ)制度の問題だということ。一国のリーダーとしてふさわしい個性を持った人物を選びたいのであれば、それにふさわしい制度に改める必要があるというのが氏の指摘するところです。

 例えば、アメリカ大統領候補の予備選挙のように、大衆の前で議論を尽くしたうえで多くの候補者の中から選ばれる制度を導入すること。そこには、ポピュリズムの温床になるといった危険性はあるものの、やはり世論や反対意見によって鍛えられた政治家を選抜していく上では良い制度だと氏は言います。

 そしてもうひとつは、国会議員ではなく地方の首長経験者が国政に参画する道を作るということ。アメリカでは、州知事として実績を残した人が大統領になる例が多いが、これは行政組織の経営経験に加え、州知事として州民との対話によってコミュニケーションスキルを鍛えてきた実績が評価されるからだということです。

 さて、言われてみれば、竹下登氏や森喜朗氏(結局、首相にはなりませんでしたが)小沢一郎氏など、自民党内では「闇将軍」「キングメーカー」と言われたような実力者でも、演説や答弁を聞く限り「どうしてこの人が…」と驚かされることはよくあること。中から上がった大企業のサラリーマン社長が、中小企業の創業社長より魅力的に見えないのも(きっと)同じ理由なのでしょう。

 いずれにしても、首相が次々に「使い捨て」されるというのは、決して良い状況とは言えないと氏は言います。(いつまでも繰り返すことなく)制度の問題として対策を考える時期に来ているのではないかとこの論考を結ぶ冷泉氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。



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