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問い合わせは「詁傳の会」(070-9068-3440)。国際交流センターを通じて外国人が招待され、日本語と英語の字幕あり。〙
〘 …17世紀後半、明の遺臣と称して台湾を支配した。鄭芝竜の子で母が日本人。鄭氏の支配する台湾(鄭氏台湾)は清に服属せず、その死後、1683年まで存続した。…
…Episode 日本でも人気の高い国姓爺、鄭成功
1715年に近松門左衛門の脚本で大坂竹本座で上演して人気を博した浄瑠璃『国性爺(こくせんや)合戦』では、平戸の和藤内(実は鄭成功、和藤内とは和=日本でも唐=中国でもない、というシャレ)が日本に逃れてきた明の皇女を助けて大陸に渡り、明の遺臣呉三桂と協力して韃靼兵(清軍)と戦い、明室再興の宿願を達成し、その功績によって明帝室の「朱」という姓(つまり国の姓)をあたえられたので国姓爺(日本では国性爺と書くのが一般的)といわれた、という話になっている。この話は大半が創作だが、主人公の鄭成功は父が鄭芝竜、母が日本人で平戸の出身の田川氏、彼自身も子供の頃は平戸で過ごした人であることは事実だったので近松の作品は大当たりした。
参考 江戸幕府、明復興協力を断る
また鄭成功も何度か江戸幕府に応援を要請しており、明と清の争いは日本でも関心が持たれていた国際的な出来事だった。鄭成功が父を殺された清に復讐し、明を復興させようとする話は、日本でもよく知られ、英雄視されていた。しかし、江戸幕閣は1650(慶安3)年、長崎などで中国人から情報を集め、明復興が困難であると判断、鄭成功の要請を断った。このとき、明と清の争いに介入して大陸に出兵しようという主張もかなりあったらしい。現代と同じような海外派兵の要請が江戸時代にあったことは興味深いが、時の幕閣が海外派兵をしなかった(あるいはできなかった)判断は正しかったと思われる。〙
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