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日本の伝統文化紹介と、日本の現状と問題点。

岡山新報デジタル【創価学会の正体】

2022-09-25 12:54:22 | 日記
●創価学会の正体⑤



政治との関係
創価大学の中野毅によれば、創価学会の政治参加の動機は、中小企業労働者を中心とする民衆の代弁、政治の監視、信教の自由の確保の三点に集約されるという。会長秋谷の日本外国特派員協会での1995年(平成7年)の会見でもこの3点が強調された。

創価学会インタナショナルの Rie Tsumura によれば、創価学会の政治への関与は第二次世界大戦時に弾圧された経験をもとにした「主に防御的」("largely defensive")なものであった。

政治学者の中北浩爾は、「公明党は、宗教団体の創価学会を支持母体として、一九六四年に結成された。自民党が財界をスポンサーとしつつ農村部に主な支持基盤を築いたのに対し、公明党は高度経済成長に伴って都市部に流入した比較的貧しい人々を組織化した。日本政治の中枢に位置した自民党とは違い、公明党は周辺から生まれ、成長していったのである。」とした

國學院大學の塚田穂高によれば、第二代会長戸田城聖は「国立戒壇」の建立を訴え、「王法と仏法が冥合すべきである」(「王仏冥合」)として政教一致的な理念を論じた。中野毅によれば、戸田の展開した王仏冥合論・国立戒壇論は政教分離原則に反するとの疑念を受けやすかったが、戸田に日蓮正宗国教化を目指す意図はなかったという。国立戒壇の建立は創価学会の政治進出における宗教的目的であり、世俗的な目的はあくまで「社会の繁栄と個人の幸福」を一致させることにあったと中野は指摘した。中野によれば、「国立戒壇」建立は戸田時代初期の創価学会の政治参加の目標の一つだったが、早い段階でそれは放棄された。島田裕巳は、創価学会の政治への関心について戸田が1956年(昭和31年)に記した中での「本門の戒壇」への言及、池田の1959年(昭和34年)の「国立戒壇の建立と学会員の前途」という講演における「政治上に、本宗の正義を用いる」という発言に注目し、これらの表現は「実質的には日蓮正宗の国教化を意味」していたのではないかと論じた。

戸田の下、創価学会は1956年(昭和31年)の第4回参議院議員通常選挙での白木義一郎・北条雋八擁立などを通して政治に進出した。第三代会長池田大作の時代に「国立戒壇」という言葉は「本門の戒壇」「民衆の戒壇」などに言い換えられ、「仏法民主主義」「世界民族主義」など普遍性のある用語が目立つようになり、「国立戒壇」は1964年(昭和39年)の公明党結党宣言にも盛り込まれなかった。創価学会批判の妨害や政教分離を巡る言論出版問題を受けて1970年(昭和45年)に創価学会は「国立戒壇論」放棄・「政教分離」を宣言し、公明党綱領から「王仏冥合」などの宗教用語を削除して公明党の宗教色を薄めた。

創価学会・公明党は、公明党結成後の1960年代靖国神社国家護持法案反対・日米安保条約改定反対など革新政党の立場にあった。中野毅によれば、このことが理由で創価学会は保守陣営から危険視された。島田裕巳は創価学会は「下層階級を組織化」する点で左翼陣営と競合していたと指摘し、創価学会が政界進出を始めた時点で創価学会は左翼陣営に批判されることはあったが保守陣営に批判されることはなかったと主張する。初期の創価学会は大都市に流入した下層民を中心にしており、学会員の圧倒的多数が社会階層の下層から中間層の下に位置することは2010年(平成22年)に至るまで変わりがない。

寺田喜朗によれば「創価学会の中央―地方組織(中央本部・方面本部・都道府県本部―総合本部・圏ゾーン・本部・支部・地区・ブロック)は、選挙の区割りに対応する形で編成されて」おり、「選挙は、会員間の結合を強化し、組織を引き締め、会員を切磋し、達成感・充実感を与え、創価学会への帰属意識を高める重要なモメント」であるという。島田裕巳は、創価学会では選挙活動が一種のイベントとしての性格を持っており、選挙活動を共にしたことで親密になり、結婚にいたる創価学会員のカップルも少なくないとしている。


岡山新報デジタル【今日は何の日】

2022-09-25 07:47:31 | 日記
⭕藤ノ木古墳記念日(9月25日 記念日)

1985年(昭和60年)のこの日、奈良県生駒郡斑鳩町の「藤ノ木古墳」の石室などが発堀された。

藤ノ木古墳は、直径約50m・高さ約9mの円墳で、古墳時代後期の6世紀後半に作られたものと考えられている。古墳の裾には円筒埴輪が並べられていた。「藤ノ木」の名称は、所在地の字名に由来するが、法隆寺関係の古文書・古記録によれば、かつては「ミササキ」「陵山」(みささぎやま)などと呼ばれていた。



1985年(昭和60年)に第1次調査が行われ、1988年(昭和63年)6月に国内の発掘調査史上初めてファイバースコープを使った石棺の内部調査が行われ、その年の10月8日に1,400年ぶりに石棺の蓋が開かれた。未盗掘で埋葬当時の姿がほぼそのまま残っており、当時の埋葬儀礼を解明する上で貴重な資料となった。



岡山新報デジタル【満州事変】

2022-09-24 11:15:16 | 日記
「満州事変は侵略戦争ではない」其の六

間島問題
1931年(昭和6年)2月、「鮮人駆逐令」で朝鮮人は満洲から追放されることになり、行き場を失った朝鮮人農民は、日中韓で間島協約が締結されていた長春西北の間島(かんとう)に移動し、万宝山に入植しようとした。しかし、7月2日には間島において三姓堡万宝山の土地を賃借した朝鮮人農民が、借地外に許可なく用水路を作り河川から水を引き入れようとし、これに反発した中国人農民とのあいだに武力紛争が生じ、さらに日本の領事館警察官とも衝突する万宝山事件が勃発した。この事件を中国側による不法行為であるとして、朝鮮半島では中国人排斥暴動が発生し(朝鮮排華事件)、多くの死者重軽傷者が出た。この事件により、日華両国関係が著しく悪化した。たまたま長春の近くで発生した事件では満洲青年連盟の長春支部長小沢開作の指導で厳重な抗議行動が展開され問題を重大化させたが、このような事件やさらに残虐な事件はざらにあったという。

中村大尉事件
1931年6月27日、大興安嶺の立入禁止区域を密偵していた陸軍参謀中村震太郎一行が張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に拘束され殺害される中村大尉事件が発生した。事件の核心を掴んだ関東軍は調査を開始したが、真相が明らかにならず外交交渉に移されることとなった。その場で中国側は調査を約したが、日本による陰謀であるなどと主張したことにより、関東軍関係者は態度を硬化させ、日本の世論は沸騰し中国の非道を糾弾、日華間は緊迫した空気に包まれた。

8月24日陸軍省は、満洲北西部・洮索地方の保障占領案を外務省に送付したが、両省間で協議の結果、見合わせることになった。しかし中国側が殺害の事実を否定する場合は、関東軍の協力を得ながら林久治郎奉天総領事が強硬に交渉することになった。鈴木貞一の戦後の回想によると、永田鉄山軍事課長と谷正之外務省アジア局長らが「満洲問題解決に関する覚書」を作成し、武力行使を含めあらゆる手段をもってやることが書かれていたという。

この二つの偶発的ともいえる事件により、また8月18日に青島にある国粋会の本部が中国人の集団に襲撃される青島国粋会事件も発生し、さらに日本人女学生数十人がピクニック中に強姦される事件も発生し、日本の世論を背景に関東軍は武力行使の機会を窺うようになった。中国側が事の重大性を認識し全面的に事実関係を認め、中村震太郎一行殺害実行犯の関玉衛を取り調べ始めたと日本側に伝達したのが9月18日午後に至ってからであったが、既に手遅れであった。この日の夜半、柳条湖事件が発生したためである。

陸軍内部の動き
1927年(昭和2年)頃、永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎らが二葉会を結成し、人事刷新、総動員体制の確立、満蒙問題の早期解決などを目指した。同年11月頃、鈴木貞一参謀本部作戦課員らによって木曜会が組織され、1928年3月には、帝国自存のため満蒙に完全な政治的権力を確立することを決定した。1928年(昭和3年)10月に石原莞爾が関東軍作戦主任参謀に、1929年(昭和4年)5月に板垣征四郎が関東軍高級参謀になった。

満蒙問題の解決のための軍事行動と全満洲占領を考えていた石原、板垣らは、1931年(昭和6年)6月頃には、計画準備を本格化し、9月下旬決行を決めていたとされている。1929年5月、二葉会と木曜会が合流して一夕会が結成され、人事刷新、満洲問題の武力解決、非長州系三将官の擁立を取り決めた。同年8月、岡村寧次が陸軍省人事局補任課長になり、1930年(昭和5年)8月、永田鉄山が軍務局軍事課長になった。同年11月永田は満洲出張の際に、攻城用の24糎榴弾砲の送付を石原らに約束し、1931年7月に歩兵第29連隊の営庭に据え付けられた。満洲事変直前の1931年8月には、陸軍中央の主要実務ポストを一夕会会員がほぼ掌握することとなった。

1931年3月、満蒙問題の根本的解決の必要を主張する「昭和6年度情勢判断」が作成され、同年6月、建川美次参謀本部第二部長を委員長とし、陸軍省の永田鉄山軍務局軍事課長、岡村寧次人事局補任課長、参謀本部の山脇正隆編制課長、渡久雄欧米課長、重藤千秋支那課長からなる、いわゆる五課長会議が発足し、一年後をめどに満蒙で武力行使を行う旨の「満洲問題解決方針の大綱」を決定した。同年8月、五課長会議は山脇に代わり東条英機編制課長が入り、今村均参謀本部作戦課長と磯谷廉介教育総監部第二課長が加わって、七課長会議となった。今村作戦課長は「満洲問題解決方針の大綱」に基づく作戦上の具体化案を8月末までに作成した。陸軍中央部では永田鉄山、鈴木貞一らが動き、関東軍では石原莞爾、板垣征四郎らが動くことで満洲事変の準備が整えられ、一夕会系幕僚が陸軍中央を引きずり、内閣を引きずって満洲事変を推進していった。

幣原外交
外務省は広東政府と何度も話し合いを行うなど国際協調を重視した幣原外交を行った。当時の外務省の見解として幣原喜重郎外相は「支那人は満洲を支那のものと考えているが、あれはロシアのものだった。牛荘の領事を任命するには、ロシアの許諾が必要だった。日本がロシアを追い出さなければ、満洲は清国領土から失われたことは間違いない。しかし、日本は領土権は主張しない。日本人が相互友好協力の上に満洲に居住し、経済開発に参加できればよいのであって、これは少なくとも道義的に当然の要求である。また、中国がかりそめにも日本の鉄道に無理強いするような競争線を建設できないことは、信義上自明の理である」と述べている。幣原外相は英米との国際協調により中国政府に既存条約を尊重することを求めようとし、アメリカのマクマリー駐中国公使も同様の方針を本国政府に訴えていたが、国務省内の親中派のホーンベルク極東部長によって日本との協調路線は退けられた。



岡山新報デジタル【今日は何の日】

2022-09-24 08:29:26 | 日記
海藻サラダの日(9月24日 記念日)
熊本県宇土市に本社を置き、主に海藻の加工・販売を手がけるカネリョウ海藻株式会社が制定。



日付は日本で最初に「海藻サラダ」を作った同社の髙木良一会長の誕生日である1930年(昭和5年)9月24日から。ワカメや昆布、もずくなどを使い、食物繊維やミネラルなどが豊富で低カロリーの「海藻サラダ」を多くの人に味わってもらうことが目的。記念日は2018年(平成30年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。



同社は水戻しして食べる「国産シリーズ 海藻サラダ」や塩蔵タイプで磯の香りがより強く感じられる「プレミアム 海藻サラダ」を販売している。その他、めかぶやもずく、ワカメなどの海藻も販売している。また、同社のサイトでは海藻をたっぷり使ったレシピを紹介している。


岡山新報デジタル【今日は何の日】

2022-09-23 07:46:27 | 日記
⭕海王星の日(9月23日 記念日)

1846年のこの日、ドイツ・ベルリン天文台のヨハン・ガレ(Johann Galle、1812~1910年)が望遠鏡を用いて「海王星」を発見した。



1781年の天王星の発見以降、その軌道がニュートンの天文力学に合わないのは、その外側にさらに惑星があるためだと考えられていた。そのため、いろいろな科学者が天王星の軌道の乱れなどを元に未知の惑星の大きさや軌道・位置を計算した。

そして、フランスのユルバン・ルヴェリエ(Urbain Verrier、1811~1877年)が計算で予言した場所にガレにより新しい惑星が発見された。一方で、イギリスのジョン・アダムズ(John Adams、1819~1892年)もその場所を突き止めていたため、現在ではガレとルヴェリエ、アダムズは3人とも発見者とされている。

海王星について
海王星(Neptune)は、太陽系の太陽に近い方から8番目の惑星である。太陽系惑星の中では最も太陽から遠い位置を公転している。名称の「Neptune」は、ローマ神話における海神「ネプトゥーヌス」にちなむ。

海王星の直径は49,528kmで、これは地球の3.88倍に相当する。巨大な氷惑星で、太陽から非常に離れているため、わずかな熱しか受けていない。表面の温度は約50K(約-223℃)である。しかしながら、中心部の温度は、約5,400K(約5,127℃)と熱を持つ。大気の構成は、水素80%・ヘリウム19%・メタン1.5%となっている。