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初代校長野村彦四郎は乗馬が得意で、官舎から度々遠乗りを楽しんでいた。熱血の人で眼光爛々、迫力に満ち,国士教育のためには、果断、猛進、泣くに非ざれば怒る、しかし生徒に対する愛情は誠に細やかであった。乗馬教練を施し、弓道場を設け、野球、蹴球、その他の運動器具も整備し、器械体操は最も盛んに行われた。乗馬部が出来たのは全国の高等中学では最初であった。古城の門を入れば左は旧熊本旧藩士の邸宅跡で、曾て警察署に宛てられたもので、その構造は寺院二つ並べたような広壮な建物だった。それに長屋門を加え、これを教室、職員室、寄宿舎、寝室、食堂などに割振りした。運動場には、右側の旧県庁跡を用いた。この一帯、三百年来の「寂び」をたたえ、庭園には古木、花樹繁茂して、高燥、幽静の境域であった。
先生は野村彦四郎校長のほか、重田、中村の二教師は第六師団では最も熟練した鹿児島県人であった。赤穂討ち入りの記念日には校長の自宅に寄宿生を招いて義士伝の朗読会を催された。校庭には常磐木の大木があり、赤い香気の高い実を結んだ。その下を弓道場とし、壁の上に出た松の懸崖の下を射的とし、教師は生駒新太郎先生。兎を西山に狩った時のこと、三の嶽の絶頂に田子を運び、柄杓が添えてある水として飲めば酒だ。苦味、口鼻を刺せども、渇した際なので飲まざるを得なかった。入学試験の時、城壁の上を続く限り駈足させ、障碍物を越え、壁上を登らせ、また飛び降らせつつ各自の耐久力や気力の程度を試験した。これにより体力は強健に、気力は旺盛なるべきことを一般に感得せしめ、入学の当初から気風を一新させた。勇将の下、弱卒なし、幹事には薩州の大橋太郎、体操には川上親賢大尉、舎監には十年の役薩軍に参加した勇士清水元吾、石川県の志士飯田秀魁氏らが当った。寄宿舎には寝台を用い、教科書は全部原書で、英語専門の観があった。森文相は急進欧化主義、外国語を奨励したが、一方に於いては天下の豪傑を集めて教育の任に当たらせたため、学生の気風は活発勇壮で、生活問題の如きは少しもなく、教育者も非教育者も、国家本位であったのが如何に政府が人材教育に急であったかを想わしめる」。ところが半年後に森文相が凶刃に倒れたので、最大の理解者を失った野村校長は非職になった。以上は参考文献五高人物史から田中尚志(明治27年法科卒)氏の談話を参照
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