
吉田久太郎の人となりと漱石の端艇部長辞任事件
五高太古の武勇史を飾る名物男は吉田久太郎であろう。彼は明治7年2月福岡県筑前国宗像郡赤間の生まれで、赤間の本籍地にある小学校に入学し仝17年7月同校を卒業している。そして同じ小学校高等科に入学し仝21年7月に同校を卒業し9月には尋常中学修猷館補充科に入学している。その後明治24年9月18歳のとき第五高等中学校補充科一級に入学している。この時の校長嘉納治五郎との出会いが後のスポーツ家吉田久太郎を創った基礎になっていることは否めない。彼は偉丈夫な男で、暴れん坊であったということだけが喧伝されているが・・・・・・彼が明治29年22歳のとき改めて五高一部法科(大学予科)の受験に際して提出している身体検査票では体重16貫350匁、身長5尺6寸4分、肺活量5千500、胸囲3尺3寸、握力も65ということからも偉丈夫であったということが確認される。第五高等中学校でも仝28年9月には病気で予科2級を退学しているが、向学心に燃えた久太郎は回り道をしてまた明治29年9月には改めて第五高等学校一部法科に入学したことが、吉田久太郎の人生を確立させたものである。(t-higashi 記)
