五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

吉田久太郎の人となりと漱石の端艇部長辞任事件

2009-04-29 11:24:02 | 五高の歴史
七~八年も前になるかと思われるが、吉田久太郎氏のお孫さん吉田勝氏から住友金属鉱山史を執筆しているので五高時代の久太郎について、成績表、身体検査票、其の他久太郎に関するエピソード等々の関係する資料を調査して貰えないだろうかとの依頼を受けた。それで五高時代の吉田久太郎に関しての資料を調査してみた吉田久太郎は五高太古の偉丈夫で端艇部の創設発展に努力したことは知っていたが、日清戦争で日本が分捕った二艘の端艇を佐世保の鎮守府から廻送、引取りに行きその帰りの立寄った港で慰労のための一杯が二杯と杯を重ねて熊本に着くころには百円を越える借財を作ったとか、というようなこと、それに新任間もない端艇部部長であった夏目漱石が責任を取り黙って百円を弁済補填してやったとかのエピソード、以下は漱石の端艇部長辞任事件として吉田勝氏の話し等から纏めたものである。まずその文書を紹介しよう。

吉田久太郎の人となりと漱石の端艇部長辞任事件
五高太古の武勇史を飾る名物男は吉田久太郎であろう。彼は明治7年2月福岡県筑前国宗像郡赤間の生まれで、赤間の本籍地にある小学校に入学し仝17年7月同校を卒業している。そして同じ小学校高等科に入学し仝21年7月に同校を卒業し9月には尋常中学修猷館補充科に入学している。その後明治24年9月18歳のとき第五高等中学校補充科一級に入学している。この時の校長嘉納治五郎との出会いが後のスポーツ家吉田久太郎を創った基礎になっていることは否めない。彼は偉丈夫な男で、暴れん坊であったということだけが喧伝されているが・・・・・・彼が明治29年22歳のとき改めて五高一部法科(大学予科)の受験に際して提出している身体検査票では体重16貫350匁、身長5尺6寸4分、肺活量5千500、胸囲3尺3寸、握力も65ということからも偉丈夫であったということが確認される。第五高等中学校でも仝28年9月には病気で予科2級を退学しているが、向学心に燃えた久太郎は回り道をしてまた明治29年9月には改めて第五高等学校一部法科に入学したことが、吉田久太郎の人生を確立させたものである。(t-higashi 記)