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夏目漱石端艇部長辞任(五高70年史54頁転載)
明治28年を以て、端艇会の成立を見た本校には、翌年の早春、新艇の進水式も行われ、30年の春には、第2回端艇会が催された。その夏、佐世保鎮守府より日清役の戦利品である鎮遠号艦載のカッター二艘を譲り受けることになり、修理の上、「旅順」と「大連」と命名、8月4日、無事江津湖にその姿を現した。回漕の際には握飯2籠、菓子類4箱、梨及び鶏卵数十個、売丹数袋、飲料水十余瓶、照前灯四個、蝋燭数十本などを準備し本校生徒十六名の外、元本校生徒一名、攻玉社生徒一名、済々黌生徒五名、数学院及鵬翼会生徒五名、凡て三十名の青年学徒が遥々漕いできたと云うことである。
ところで、その前年4月14日付を以て、赴任したばかりの夏目教授(7月9日までは講師)は間もなく龍南会の端艇部長を委嘱された。偶々龍南武勇伝中の一人吉田久太郎氏(他の一人の相手は、日露戦争当時、北満に於て勇名を轟かし、沖・横川と並び称せられた沖禎介氏)がその指揮者と為り、大任は果たしたが、その為に百円近くの赤字を出して、さしもの勇士もほとほと困って居た時、その事を耳にした教授は、平然とそれを償ってやり、責任を感じて部長を辞したと伝えられて居る。
その後その二艇は永らく異容を湖上に留め、漕艇の折にも使用されていたが、何時の間にか姿を消してしまった。(大正2年3月15日発行の雑誌「龍南の春は未だ来たらず」「吾人の見たる端艇事件」参照)
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