五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高の歴史・落ち穂拾い

2011-02-05 06:08:07 | 五高の歴史

週1回の五高記念館への出勤であるが10年前の3月の様子を眺める。10年前にはすでに資料の整理を行う余裕はなく雑用に追われていた。


火曜であったのでいつものように出たのであったが、この日は春雨が降っていた。10日に五高卒業の作家梅崎春生の未亡人恵津さんの講演会を近代文学館友の会との共催で我が復原教室で行いたいと言うことであり、その準備のため、またスエーデン国ノーベル博物館長が文・法学部の講義室で講演会を行った後記念館を訪問したいと言う要望があっていたその準備を兼ねて出ていった。

文学部金原先生を通じてKBC九州朝日放送が8日撮影に来たいと行っていること。館長から金原先生の方に私と打ち合わせてくれと電話、館長から最後の寮長、昭和28年の祝辞を預かっていたと言うことで受け取る。その他U教授が探していた明治四十二、四十三年頃の集合写真を探す。この先生十数年前にこの資料室で見たとか、・・十数年前には資料室の整備はまだまだであったのであまり信用がおけない。

東光会の資料を来週3時半頃持ってくると連絡があり了解する。
11時金原先生が撮影資料の検討で来館、第一展示室校長の偏額、第三展示室の秋月胤永の漢詩、ハーンの試験問題、俸給の記載を見せる。

梅崎恵津さんの講演会のため弁当の予約、了解される。学内の食堂は学生が休みの時にはお休み、大学周辺には洒落た店もなく困ったものである。

3時U先生来館する。朝から見つけていた集合写真を見せる、一ヶ月間ばかりドイツを訪問してくるとか、集合写真の中には今まで自分が見なかったものも含まれていると喜んでおられた。

国際交流課から今日のノーベル博物館長の記念館訪問は時間がなくなったので取りやめになったと通知ある。どうせ佐藤栄作首相のコーナー位を重視して案内するかと思っていたところであったので丁度良かった。外人さんは五高にはあまり興味はあるまい、学生課T氏が東京工大のお客さんを連れてきた。案内に協力し肝心のところを三十分くらい案内してやった。。


熊本近代文学館友の会と五高記念館友の会とで梅崎恵津さんの講話会を本学で行う、梅崎春生の未亡人として又画家として有名。先日の熊日新生面にいろいろ梅崎春生についての記事があったがあまり興味がなかったので読みすごしていた。講話会は十一時から復原教室で行う。日曜だからと思っていたが、到着は十時、復原教室を使用するので見ておかねばなるまいとすぐ記念館へ、ガードマンさん十時には展示室を開放し、点灯していた。復原教室は汚い、汚れている等は言われたくない。黒板、机、電灯等点検する。

講師をお連れしましたと近代文学館館長が連れてきた。講師は梅崎春生の未亡人と言うことであるので年齢から推察して大分お婆さんを想像していたが、どうして女優森光子ばりの活発な人だ。まだ十一時までには時間があるので第四展示室,寮関係のところへ案内する。林房雄、高田運吉等は残っているメモを展示しているが梅崎については何もない。彼の五高時代には何も残してはいないのか?校友会雑誌龍南には書き物が残っている。もう少し私の方へ直接話でも通っていればもっと考えてでもいたのにと思う。

未亡人は梅崎の~~。梅崎の~~と感激しているようではあった。十一時から講話会は開始されるがこちらは弁当の用意、生協も福祉協会もくすのき会館も今日の出席者分六千円位の売上では休日には出来ないと言う。それかといって大学周辺にも昼食が出来る気のきいた喫茶店もない。ほっかほっか弁当を注文しておいたのでそれを取りに行く。会場を生涯学習教育研究センターに準備する。

講話会時間一時間を取ってあったが,弁当を取って来て並べお茶を並べるともう十二時・時間の経過は恐ろしく早い。代表世話人は上京中とか、

梅崎は桜島で直木賞,恵津さんは百号の桜島を書いたとかいろいろ話も弾んでいた。言い出しは文学館長と代表世話人か?ともに初期の熊大出で熊日の同輩であり新聞社時代から仲が良かったとか?そんなことはどうでもいい。今日のことなどもっと充分にこちらにも話を打ち分けてもらいたかったと言う感じ、謝金も文学館、記念館と半分出しと決めてあったので半分分担し,弁当賃参千円は返してもらった
 
十日に梅崎恵津さんの講話会に出て行ったので二日で又出るので何かおかしい感じ、七時三十五分に出発、後期日程の入試があるので交通の都合を少々気にしての出る、先頃預かったニュ‐ズレターの原稿を遣ってくれと頼む。

金曜日に九州朝日放送がハーンの試験問題,秋月胤永の漢詩を撮影するため展示ケースの鍵を開けた状態にしていたのでまず鍵を掛ける。ただパタパタと掛けるだけではないのでゆっくり鍵を見つけて合わせないと閉まりも開きもしないので困る。三年間の間に数回は開けたり閉めたりしたので少しはその状態も分かった感じ。

四月から案内ボランテイアでもはいれば又鍵の重要性も増す感じ。廊下に少々大きい煤が落ちているので箒ではきだす。一階部分については資料室用の掃除機を引張り出す。二階をバタバタしていたとき誰か入ってきた感じ、

博陽工業の会長さんとそのお付きの人,この間の東光会の資料を気にして今日持って来るとのこと。断りの挨拶のようである.律儀な方である。先週内尾病院長が昼から持って来るとの連絡を受けていることを伝えると喜んで下さった。

市史編纂室から「肥後村々雨乞行列絵巻」を市史の中に加えたいので撮影させてくれとの連絡があり。
内尾病院長さんが五高東光会の資料を持ってきたものの確認。

春休みに入っていることも関係しているようで交通はスムーズに通行出来た。記念館周囲の桜の花がまだ三分位か、大分色づいてはいる感じ。今日のうちには五分までには開くことだろう開室は四十五分早速先週の東光会関係資料を眺めなおす。徳富蘇峰の筆になると云う五高東光会綱領の掛軸を見る。経過等を読むと空襲の時には五高生は必死に守ったことなどあり、右翼的思想の勉強クラブか、あまりついていけない感じ、
丁度中曽根康弘や石原慎太郎か、中川一郎等の若い時位の思想か?まじめな人が被れるような。昭和二十年の寄書きには肘岡稔冶、内尾太郎等の名前も見える。博陽工業の会長さんが二回も三回も出て来たり電話連絡をして気にかけておられるので、寄書きの方は展示することにして掛軸のほうは場所を設定してからということにしておいた。

同窓会の関係資料とかただ年代毎にビニール袋に入れ置いてあるばかりで重い。昭和六年ころの購入関係、特に名簿作成費用等を眺めて見ることは時代の経過を忘れさせて面白い。資料として残せるように整理を試みる。確認して並べるだけで量は半分になってしまった。

市史編纂室がやってきた。申請書の女性が主任だ。歴史には興味があるようではあるがそう全般にわたった詳しさはないようだ。それにカメラマン、女性が歴史担当のようだ。江戸時代の資料を探しているのこと。
肥後村々・・・は多分明治の作成ではなかろうかとのこと。こちらもそれ位はわかっている事を伝える。
その他細川三斎公の安南国王への礼状。本居宣長・長瀬真幸の往復書簡、荻生徂徠の書状を見せる。これも撮影させてくれと言う。撮影許可は管財にすぐ提出するとの事。許可があればこちらが口出すことではない。撮影場所まで見せて来週の撮影に備えさせた。

NHK松山放送局が漱石関係を撮影に来るという。少々気にしながら昼食後、前記の同窓会証拠書類の点検を続ける。一件ごとでは時間は食うが資料として残すのであればこれからもう一回くらいの淘汰が必要だ。全然資料として必要ないかもしれないが、

昭和十五年大連五高会の歓迎会準備等の通知文書、旅行日程等は六十年前の当時の満州旅行の様子が知れて関係したものが生きてでもいれば想い出は尽きないだろう。

センターからまた友の会入会者があっていることの通知があり取りに行く。今日は三往復したので大分疲れた。スリッパでは遺憾ようだ。

市史変遷室から肥後村々雨乞い道中行列絵巻を撮影に来ると言うことで出る。担当の管財へ顔を出す。掛長情報企画課へ配置転換とか市の編纂室は9時30分に来館した。資料と撮影場所を提供してやったので自分は整理室に引き上げる。同窓会の資料を点検していると熊本五高会の様子が伺える。

館長から今度のニューズレターに五高博物の浅井東一先生の写真を入れたいとの連絡があり、百周年記念祭のときの写真を引き出してセンターに持って行く私の方が昔の教官の顔を知っていることが多い。

世話人会を4月2日に行いたいと連絡あり、世話人6人に通知するも皆さんお忙しいのか一発で連絡が付いたことは合ったためしがない。困ったものである。