五高の歴史のなかで禁酒令が出されたのは桜井校長の時であったがこれは鹿児島の連中と寮で対立して喧嘩が絶えなかったとかこれすなはち酒の上での対立があったから根本原因は酒の上であると言うことであった。桜井校長は明治40年に退官するまで、実に18年に及ぶ勤務であった。校長就任にあたっては多年の経験から学校運営に明るいため、多くの実績を挙げるものと期待されたが、第一に手をつけたのが禁酒令の実施であった。五高に赴任する前は相当の酒豪であったというが、ふとした動機でぷっつり酒をやめ、其の後は熱心な禁酒党になった。酒による幾多の失敗もあったようで、酒の害を知っていたからであるとも言われている。五高の禁酒令は、その体験から発案されたものであり、それだけに生徒に対して親切の籠った手段であったが、強制的な仕打ちとして非難される面が多かった。
明治34年(1901)9月の入学式では「本校は自今、生徒の飲酒をやめさせる方針である。・・・・」と訓示し早速に新入生総代に四か条の宣誓文を朗読させた上で入学者各人に署名させた。実施の背景には酒の上での不祥事、特に寮運営について、鹿児島出身者と熊本出身者とが対立していたこと等も一つの原因だったようだが、禁酒令をめぐっては幾多のナンセンス劇が飛び出した。主旨は正当なものであったが、実施の方法に無理がありすぎて予想したほどの成果は上がらなかった。
しかし酒飲むなと言うことは明治20年の開校当時に決まっていたようで、ここに明治二十年十一月九日に寄宿舎細則がある、明治二十年十一月といえばまだ五高が開校して初代野村校長の発令が明治二十年六月四日であることを考えあわせば寄宿舎細則の設定は開校と同時であったということになる。更に寮の場所はまだ古城の時代であることも考慮しなければならないだろう。
その第十一条第一項に
「凡ソ舎内ニ於テ酒類は勿論其他不必用ノ飲食物ヲ貯フル事若クハ飲食スル事」
という規則が定められている。これは即ち寄宿舎内に酒を貯蔵して置いたり、酒を飲んだりすることは出来ないということであると思われる。
寮の自治制度を確立した藤本充安氏(第一回入学者)に依ればこの細則は余り遵守されなく以下のように定められている。
我々五高生は九州における最高学府の生徒である。そのためには
一、各自自重しいやしくも校名を汚す事がないようにすること
一、飽くまで校風を維持すること
一、男らしく元気を保つこと。
一、学生の体面を保持すること。
一、酒は呑んでも乱れがましき振舞せざること。
上記の条々に触れる者は鉄建制裁をもって制裁すること。
と規定されていることは寮生が自らの自治を確立させる為に定めている。
ここでは酒については酒は飲んでも乱れないようにすることというようになっている。
自治制度の確立のための規定と学校側の細則の制定では寮生が守ったのはやはり自分等の定めた規定であることは疑えないことであったろう。この細則の修正は二年後の明治二十二年十月十一日発議者は舎監によって建議されている。
明治34年(1901)9月の入学式では「本校は自今、生徒の飲酒をやめさせる方針である。・・・・」と訓示し早速に新入生総代に四か条の宣誓文を朗読させた上で入学者各人に署名させた。実施の背景には酒の上での不祥事、特に寮運営について、鹿児島出身者と熊本出身者とが対立していたこと等も一つの原因だったようだが、禁酒令をめぐっては幾多のナンセンス劇が飛び出した。主旨は正当なものであったが、実施の方法に無理がありすぎて予想したほどの成果は上がらなかった。
しかし酒飲むなと言うことは明治20年の開校当時に決まっていたようで、ここに明治二十年十一月九日に寄宿舎細則がある、明治二十年十一月といえばまだ五高が開校して初代野村校長の発令が明治二十年六月四日であることを考えあわせば寄宿舎細則の設定は開校と同時であったということになる。更に寮の場所はまだ古城の時代であることも考慮しなければならないだろう。
その第十一条第一項に
「凡ソ舎内ニ於テ酒類は勿論其他不必用ノ飲食物ヲ貯フル事若クハ飲食スル事」
という規則が定められている。これは即ち寄宿舎内に酒を貯蔵して置いたり、酒を飲んだりすることは出来ないということであると思われる。
寮の自治制度を確立した藤本充安氏(第一回入学者)に依ればこの細則は余り遵守されなく以下のように定められている。
我々五高生は九州における最高学府の生徒である。そのためには
一、各自自重しいやしくも校名を汚す事がないようにすること
一、飽くまで校風を維持すること
一、男らしく元気を保つこと。
一、学生の体面を保持すること。
一、酒は呑んでも乱れがましき振舞せざること。
上記の条々に触れる者は鉄建制裁をもって制裁すること。
と規定されていることは寮生が自らの自治を確立させる為に定めている。
ここでは酒については酒は飲んでも乱れないようにすることというようになっている。
自治制度の確立のための規定と学校側の細則の制定では寮生が守ったのはやはり自分等の定めた規定であることは疑えないことであったろう。この細則の修正は二年後の明治二十二年十月十一日発議者は舎監によって建議されている。