昭和十八年高等学校令が改正され九月二十二日学徒出陣の命が下っている。五高では十月十三日出陣学徒の壮行会が開かれ昭和19年文科甲を卒業された桟 熊獅氏の次のような悲壮な決意表明があっている。
学徒出陣の記の答辞
天高く雲流る丶悠久の自然を他に世界史は躍動す その最中に我ら征く者にとりてかくも盛大なる壮行の会を開かれ我らの感激大なるものあり 我らこの感激を心に銘じ 諸先生始め全龍南人の期待に背かざるの覚悟有らざるべからず
あ丶我ら征く我等に三千来富士の高嶺を仰ぎみて元寇 日清 日露と幾多の困難に莞爾として散りゆき志祖先より伝へうけにて 今尚脈々と波打ち流る 大和民族の血汐あり加ふるに此処龍南にて血涙もて培ひし剛毅の魂朴訥の心あり而して背後に龍南人諸兄との固き心の結びあり 我らこの鉄石心もて山嶽崩すべし 史夷狄何する者ぞ海翻すべし 我等未だ学終えず業らず されど晴れて召さる日本男子の名誉何もの之に過ぐ 惟ふに学は書室に籠り書籍にのみよるもの之 その本然の姿に非ず 自らの知とは 自己の力により創成せられ築き上げられし学的組織体形を言ふなり之こそ自己の血となり肉となれる生ける知なり悦ばしき哉幸なる哉我らに今真の斈習の道を与えらる
我等出陣のま爽けく晴れたる朝坦々たる心のま丶豊かに微笑みて家門に立ち見送るらむ父母にかく語らむ「右手に剱とり左手に筆捨つることなし闘ひ且学はむ」と諸氏しばし偶べ或は愛機に打乗りて南瞑の空玄冥しきりに荒れ狂ふ最中を雄々しく翅き哉は野菊咲き薫る昿野遥々と渇に苦しみつ丶越えゆらむその頃こ丶龍南にては兄等孜々として学びに専心し赤壁の城松の緑に映えて厳然全国を睥睨しあらむされど征くも残るも龍南に笈を負い多数先人によりて錦上更に花を添へられし剛毅朴訥の精神に生きる者なり我ら」艱難に生きむ我ら敵弾被り先ず両足もぎ奪はるれば両手もて掻き進まむ その両手更に飛び散らば根限り体ゆさぶりて横転し以て敵陣に肉迫せむ身体敵弾に砕くれば歯に草のみ鮮血にまみれ骨砕け乱れて形とてなきもこの躯を引きずり行かむ 遂に顔面に弾受け口に物噛む力なく進む能はず生命絶つとも魂もて敵陣に飛び行かむ 千万人と雖も我行かん哉
我に後顧の憂なし 龍南五高は光を永久に栄ゆるなり我ら学問の内外道は異なれど相呼応し以て光輝ある五高史を汚すまじ 而して大和民族永遠の発展に献身せむ さらば我ら征く 再び相まみゆくことなかむ されど七度生れて君国に報ぜん哉
最後に諸先生より戴きし御鴻恩に厚く謝しその御健康と将 又諸兄の御多幸とを心より祈り重ねて龍南人たるの自覚もて戦はむことを誓ふものなり。蕉辞以て答辞となす・・・・・ さらば
昭和十八年十月十三日 代表 桟 熊獅
今考えて見ればまだ年端も行かない17~18の若い世代の学生の悲壮な決意である。現代の人であればお国ためにこのような悲壮な決意が出来るであろうか、なお、桟氏は戦後は佐世保の市長さんを歴任されている。
学徒出陣の記の答辞
天高く雲流る丶悠久の自然を他に世界史は躍動す その最中に我ら征く者にとりてかくも盛大なる壮行の会を開かれ我らの感激大なるものあり 我らこの感激を心に銘じ 諸先生始め全龍南人の期待に背かざるの覚悟有らざるべからず
あ丶我ら征く我等に三千来富士の高嶺を仰ぎみて元寇 日清 日露と幾多の困難に莞爾として散りゆき志祖先より伝へうけにて 今尚脈々と波打ち流る 大和民族の血汐あり加ふるに此処龍南にて血涙もて培ひし剛毅の魂朴訥の心あり而して背後に龍南人諸兄との固き心の結びあり 我らこの鉄石心もて山嶽崩すべし 史夷狄何する者ぞ海翻すべし 我等未だ学終えず業らず されど晴れて召さる日本男子の名誉何もの之に過ぐ 惟ふに学は書室に籠り書籍にのみよるもの之 その本然の姿に非ず 自らの知とは 自己の力により創成せられ築き上げられし学的組織体形を言ふなり之こそ自己の血となり肉となれる生ける知なり悦ばしき哉幸なる哉我らに今真の斈習の道を与えらる
我等出陣のま爽けく晴れたる朝坦々たる心のま丶豊かに微笑みて家門に立ち見送るらむ父母にかく語らむ「右手に剱とり左手に筆捨つることなし闘ひ且学はむ」と諸氏しばし偶べ或は愛機に打乗りて南瞑の空玄冥しきりに荒れ狂ふ最中を雄々しく翅き哉は野菊咲き薫る昿野遥々と渇に苦しみつ丶越えゆらむその頃こ丶龍南にては兄等孜々として学びに専心し赤壁の城松の緑に映えて厳然全国を睥睨しあらむされど征くも残るも龍南に笈を負い多数先人によりて錦上更に花を添へられし剛毅朴訥の精神に生きる者なり我ら」艱難に生きむ我ら敵弾被り先ず両足もぎ奪はるれば両手もて掻き進まむ その両手更に飛び散らば根限り体ゆさぶりて横転し以て敵陣に肉迫せむ身体敵弾に砕くれば歯に草のみ鮮血にまみれ骨砕け乱れて形とてなきもこの躯を引きずり行かむ 遂に顔面に弾受け口に物噛む力なく進む能はず生命絶つとも魂もて敵陣に飛び行かむ 千万人と雖も我行かん哉
我に後顧の憂なし 龍南五高は光を永久に栄ゆるなり我ら学問の内外道は異なれど相呼応し以て光輝ある五高史を汚すまじ 而して大和民族永遠の発展に献身せむ さらば我ら征く 再び相まみゆくことなかむ されど七度生れて君国に報ぜん哉
最後に諸先生より戴きし御鴻恩に厚く謝しその御健康と将 又諸兄の御多幸とを心より祈り重ねて龍南人たるの自覚もて戦はむことを誓ふものなり。蕉辞以て答辞となす・・・・・ さらば
昭和十八年十月十三日 代表 桟 熊獅
今考えて見ればまだ年端も行かない17~18の若い世代の学生の悲壮な決意である。現代の人であればお国ためにこのような悲壮な決意が出来るであろうか、なお、桟氏は戦後は佐世保の市長さんを歴任されている。